10.陽炎

 目張りなどは取り払われ、ステンドグラスから夕日が差し込み、どこか神秘的な雰囲気の礼拝堂。イルミナは並ぶ椅子に腰掛け、放心していた。

 あれだけたくさんあった蝋燭も、床に描かれた魔法陣も、フィッシャーの遺体すら跡形もない。先ほどまでの出来事が夢のように感ぜられた。しかし、夢なんかではない、確実な証拠が彼女の手の中に握られている。鷲の瞳が紅く光る――これは紅玉だろうか――彼から受け取った十字架。妖しい、見ているだけで魅入られてしまいそうな深淵のいろ。イルミナはこれをに返すつもりはなかった。フィッシャーはああ言っていたが、きっと十字架をイルミナに持っていて欲しかったはずだ。赦しの返礼のようなもの。先ほどまでそう思っていたが、こうやっていつもの礼拝堂が戻ってくるにつれ、違うと確信していた。

 これは罰なのだ。

 どこまでも、それこそ奈落までも堕ちるつもりでいたフィッシャーを彼岸に向かう覚悟をほどくかのような傲岸な台詞で、イルミナは彼を繋いでしまった。微かな希望を持ちながら、何一つ結果は変わらないように縛り付けてしまったようなものだ。彼の苦笑が人間らしく見えたのも当然、月明かりの絞殺魔はあの瞬間きっとヒトとして死ねたのだろう。

「……なんてね」

 俯いた顔を上げ、礼拝堂を仰ぎ見る。

 赦し。

 かつてはここに住まうていた神に、我々はどんな赦しを与えてもらえたのだろうか。『埋葬』は神に対しての冒涜みたいなものだ。

 信心なんて大して持っていないイルミナにそう考えさせる空間。だからこそ、心に染み入るのかも知れない。


 イルミナの肩に手が置かれた。

 本来後片付けは管理人二人であるイルミナとザックの仕事なのだが、今日は外に詰めている多くの警官たちが手伝ってくれたので、あっという間に終わった。警官たちは訝りながら多くの蝋燭をかき集め、それから床の魔法陣を拭っていた。きっと彼らには後に緘口令が敷かれ、狐につままれたかのような気持ちになるに違いない。

 参加者は『埋葬』が終わるや否や、足早に全員引き上げた。殿下ですら終始無言であった。きっと、フィッシャーの言葉に思うところがあったのだろう。

 なので、今この空間にはイルミナともう一人しかいない。イルミナは前を見据えたまま、少年に声をかけた。

「ねぇ、ザック。人が人を救うなんて傲慢な考えなのかな?」

 彼は無言のままだったが、肩に置かれた手が微かに揺れた。

「赦し、なんて言ってみたけど、フィッシャーの言った通りなのかもしれない。彼の手にかかった遺族が聞いたらあたしまで罵られそうだと思う。自分勝手な考えで誰もを不幸にする。感情を入れないように……それがこのモルグの管理人の正しい在り方。でも、あたしは人間なんだよ。感情を持つのが当然なんだ」


 イルミナはいつしか泣いていた。抑えていた感情が、ザックを前にして溢れて止まらない。

「今はなんとかやれているだけなのかも。前に言ってたよね? あたしの前任者が自殺したって。きっと、彼もあたしも似ているんだと思う。入り込んでしまう、取り込まれてしまうって言ってもいいのかもね、はは」

 まるでもつれて絡まった単語の羅列。まるで渦のようだな――イルミナはどこか他人事のような気持だった。いけない、こんなこと言うつもりはないのに!

「だからね、次の休みにでも王都に行ってくるよ。きっとあたしなんかより素晴らしい人がここの管理人を……」


「――人には大事なものがある。優先順位。お前にとっては家族……それから自分なんだろう。誰だってそうだ。我々は機械じゃないんだ。感情があって然るべき」


 イルミナの言葉を最後まで聞きたくなかったのか、言葉を遮るかのようにザックが話し出す。彼のやり方じゃないことにも驚いたが、いつにも増して雄弁なザックに、イルミナは溢れる涙を拭うのも忘れて後ろを振り返る。そこにはいつも以上の仏頂面をした少年が、イルミナを一切見ずに言葉を繋いでいた。

「……ザック?」

「お前はそれでいいんだ。きっと誰かに寄り添える人間なんだろう。それは俺にはないものだ。だからそのままでいい。その優し……思慮の深さで、剥がれなくなった感情を解いてやるべきだ。さっき、したように。少なくとも、傲慢だと言った赦しで救われたはずだ。罪や罰なんかじゃあ、きっと、ない」

 そこまで一息で言うと、大きく息を吐きだした。それは言葉の疲れを癒すようで、イルミナは思わず笑ってしまった。いつの間にか涙も止まっている。

「ありがとう、ザック」

 立ち上がってザックの瞳を見る。そこには何の感情も読み取れない、普段通りのザック・ノーガーがいた。白昼夢を見ていた様な気持ちになる。

「ここは冷える。戻るぞ」

 いつものように肩を竦ませてザックは礼拝堂の扉へと足早に向かう。イルミナを振り返ることはなかった。

「待ってよ、そんなに急がなくてもいいでしょ」

 ザックを追いかけつつ、イルミナはもう一度礼拝堂を振り返ってみた。大丈夫、いつもの礼拝堂だ。

「あたしの職場の、礼拝堂だ」

 ゆっくりと確かめるように言って、その優しい響きに安心した。ところでイルミナは思った。


 ――じゃあ、ザックの大切な人って?


 聞いてみたかったが、ザックは遥か先を歩いている。照れ隠しなのかもしれない。何せ、ザックの中でイルミナは人間なのだから。

「これも、また今度だね」

 呟くように吐きだし、礼拝堂の扉を閉める。

 沈みゆく太陽がやけに眩しく映った。


 そんなイルミナは知る由もなかったが、礼拝堂にはふわふわと頼りなげに舞う、綿埃のようなものがあった。それはやがて着地し、微かな光を出した。まるでイルミナから隠れるかのように。



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