9.十字架
しばし、誰も口を開かない。空虚ともいえる時間だけが過ぎ去った。
これも殿下を除く全員が知っていることだった。フィッシャーを捨てた母親は、一年ほど前に王都付近の娼婦街で死んでいる。
「彼女は『月明かりの絞殺魔』に 異常なまでに怯えていた」
これは、彼女をよく知る者の話だ。
フィッシャーの母親は最初の犯行があった当時から、かつて捨てた自分の息子が犯人だと確信していた節がある。
では、何故彼女はキングダム・ヤードに情報を提供しなかったのか?
答えは簡単だ。月明かりの絞殺魔、すなわちアンドレア・フィッシャーに自分の居場所を突き止められたくなかったから。
晩年の彼女は異常なまでに攻撃的になり、他人を遠ざけていたという。もちろんフィッシャーのせいというのもあるだろうが、元からかなりの激情家だったとは元いた娼館、女将の弁だ。月明かりの絞殺魔が有名になる前から、山奥の木こり小屋を借り上げ、食料品の買い出しなど最低限度以外は人前に姿を現すこともなくなった。
彼女が発見されたのは死後ひと月あまり経った頃、晩夏とはいえ太陽はいきおい熱く大地を照らしていた――と言えば遺体の様子も伺えよう。ともかく、最初は人の死骸と判断のつかない有様だったとイルミナは聞いた。
「……ふん、らしい死にざまだったんだな」
王都付近、月明かりの絞殺魔が跋扈する時節のことだったので、彼女の検視にも立ち会ったアルバート医師から説明を受けたフィッシャーはどこか寂しそうに、そう零した。幾本目かの煙草に火を灯し、審判の光に向かって続ける。それは懺悔そのものに見えた。
「最初はな、特に意味もなかったことだったんだよ。最初の娼婦が、何だかんだ理由を付けてこのオレを笑いやがった。カッとした……とも違うな。娼婦を選んだ時点でオレの中に説明が難しいが、殺意ってもんがあったんだろう。殺した娼婦がつけていたのがたまたまピンクのリボンだったってだけで――」
ピンクのリボン――これがヤードがフィッシャー逮捕のきっかけともなった『秘密の暴露』である。
新聞などでは、月明かりの絞殺魔が使用したのは細長い布ということになっている。実際は布なんかではなく、人口繊維で作られたありふれたリボン。もちろん、色も伏せられている。このことを知っているのはヤードでも限られた捜査関係者、もしくは月明かりの絞殺魔本人だけだ。
母親がそれを知っていたのかは明らかになってはいない。だが、なんとなくイルミナには理解できる気がしている。女の勘――とでも言えそうなもの。娼館、標的は娼婦、徐々に南下する殺人鬼、そして細長い布。ひとつひとつは他愛もない断片だが、それらを合わせると全てを知っている人間には簡単に理解が出来たであろう。
では何故彼女は娼婦街から離れなかったのか? 曖昧な解でいいのであればイルミナにも答えられる。おそらく彼女は――息子に見つけて欲しかったのだ。誰よりも生に執着していた彼女だからこそ、その象徴とも言える息子を一目でも見たかったのだ。相反する想いというのはイルミナだって持ちうる本能のようなもの。『おんな』だから。隣のザックを盗み見る。彼は相変わらず感情の読めない、真っすぐな瞳をフィッシャーに向けていた。
ともかく。
ピンクのリボン。それはフィッシャーの母親が気まぐれか、息子を哀れに思ったのか、唯一娼館に残したものだった。
「――因果ってやつがあったとしたら、きっと最初から決まりきっていたことなんだろうな。何もかもが終わって冷静になってみたら、娼婦に巻き付いているのはピンクのリボンじゃないかって笑いが止まらなかったぜ。結局オレは自分で選んだつもりだったというのに、何一つ選択できていなかった……ってな」
自嘲とも言える自白。誰も言葉なく稀代の殺人鬼を見つめていた。
「とまぁ、これがあんたらが聞きたかったことだろう。動機ってやつだ。オレはあのクソババアにサインを送っていたのさ。その感情が何なのかってのは今はもう分からねェけどよ」
あるものは憐憫を。
あるものは憤怒を。
あるものはその底なしの闇を垣間見た恐怖を。それぞれがそれぞれの思惑でただ、聴き入っていた。
「これで満足か……って」
そう言いかけたフィッシャーの動きが、イルミナを見たところで止まる。
いつしかイルミナは泣いていた。自身が持つ感情が一体どこから来ているのか分からないが、涙は止まらなかった。
「おいおい、なんでお前が泣くんだよ」
「分からない」
「安い感傷ってやつかい?」
「分からない。でも、私は……私くらいはあなたの罪を赦す」
娼婦たちにも人生はあったのだろう。それがただ一人のエゴで葬られてしまう。遺族にもフィッシャーを殺したいほど憎む人だっているに違いない。殺人とはそういうものだ。一切の可能性を消し去ってしまう。
だが、イルミナは知ってしまった。分かってしまった。同調してしまった。
たった一人、ちっぽけだとは言え、赦しがないと救われない物語になってしまう。そう、考えてしまったのだ。
「それはな、お前が身内を殺されてないから言える台詞だ」
「そうかも知れない、でも……でも」
「いいじゃないですか、フィッシャー」
誰しもがこの空気に当てられて言葉もない中、よく通るバリトンを発したのはもちろん、殿下だった。
「いいじゃないですか。彼女はあなたの人生に一点だけでも美しい終止符を打ちたいのですよ。救いのない物語であっても、最期くらいはいいでしょう。それにここは紳士の国です。女性を泣かせるなんてもっての外」
鷹揚な、それでいてくだけた物言い。場に似つかわしくないからこそ、フィッシャーも当てられたのだろう、渋々と頷いた。
「……分かった。赦されてやる」
それがどことなく可笑しくて、イルミナは泣き笑いの表情になってしまう。それを見て、憮然としたままフィッシャーが続けた。
「いいか、お前の勝手な赦しはお前のものだ。同様にオレの罪だってオレのもの。あくまでお前の勝手な都合だってことは忘れるなよ」
「分かってる」
絞り出すように答えたイルミナに、フィッシャーは不満げながらも頷いた。
「もういいだろう? こんな茶番に長々と付き合わせやがって」
フィッシャーは全てを理解しているのか、イルミナの隣で偉そうに腕組みをしているザックを見やる。それに応える代わりに彼は「そろそろ時間だ」と短く言った。
「待て!」
「なんだよ」
棺に横になろうとしたその瞬間、一行の最前列、殿下の隣にいつの間にか進み出ていたのはアドラーだった。
「肝心なことをまだ聞いておらん」
「もう終わったろ。動機を知りたいんじゃないのか?」
「もう一つのほうだ」
言い終わる前に誰もがある参加者に視線を走らせる。その本人である殿下はどこか楽しげに腕を組んでいた。フィッシャーすらも殿下を見やるがその瞳からは何も読み取れない。
「なるほどね」
「それさえ終われば、後は死体に戻るも勝手にするがよい」
面白くもない冗談だったが、アドラーにそのつもりはないようだ。厳つい表情のままフィッシャーを睨みつける。
「期待しているところ悪いが――」
フィッシャーは棺に頬杖をつき、手をひらつかせる。審判の光を見たまま答えた。
「――オレはその答えを知らない。あいつが娼館を出たのがいつなのか思い出してみろよ」
アドラーの表情は変わらないが、どこか安心したように一つ息を吐きだした。
「おっと、こっちもひとつ忘れてた。ほら、受け取れ」
わざとらしくフィッシャーが言うと、イルミナに何か放り投げた。
「……これは」
それは彼がいつ何時も身に着けていたもの。王家の紋章でもある鷲を象ったクロスだった。隣を見るとアドラーが唇を強く噛んでいる。
「くれてやる。売れば結構なモンになるだろうし、いらなければ――」
フィッシャーがゆっくりと一点を指さす。
「――あいつに返してやれ」
やっぱり!
フィッシャーは分かっていたのだ。元から憶えていたのか、『埋葬』の結果によるものかは分からない。『埋葬』は死者の記憶、その全てを再現すると聞く。本人が忘れているものまでも。
誰もが彼の指先を見ようともしなかった。それを見てしまったらきっと、この物語に終わりは無くなるのだろうと――そう本能から理解していたから。
誰も動けないなか、フィッシャーは楽しそうに笑みを浮かべていた。
「じゃあな。頼んだぜ、イルミナ」
「あなたにファーストネームを呼ばれる覚えはありません」
「本当に食えねぇ女だ」
苦笑しながらフィッシャーは今度こそ横たわる。その瞳はどこまでも冷たく映ったが、彼が初めて見せた人間らしい表情だった。
やがて頭上に煌々と輝いていた審判の光が消えゆく。
それが最後だった。アンドレア・フィッシャーは物言わぬ遺体に戻る。今まで話していたことが不思議なくらい、それは誰が見ても完璧な遺体だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます