8.虚空

 フィッシャーは、質問の意味を計りかねているのか、しばし俯いて思案しているようだった。

 事情を知らない殿下だけが、アルバートに視線を投げる。これが先ほど言っていた、ことの答えだった。医師が説明のために口を開く直前に、フィッシャーが棺を軽く叩いた。こつこつ、と控えめに音を出しただけだったが、全員の視線を集めるには充分だった。

 だが、注目を集めたはいいが、口を開く様子は見られない。大きくため息を吐き出すと、自らの頭上に輝く審判の光を仰ぎ見る。ゆっくりと立ち上がり魔法陣の端――つまりイルミナの目前で立ち止まる。

「イルミナ、とか言ったか?」

「あなたにファーストネームを呼ばれる覚えはありません」

 フィッシャーはこれ以上ないくらいに顔を歪ませ、イルミナを睨んだ。――が、それも一瞬で、すぐに能面のような昏い瞳に戻る。

「なんだっていいけどよ、聞きたいことがひとつ。これから俺が聞こうとしている質問、それにこの質問自体で二つになるってことなのか?」

「イエス。どのような状況下であれ、規則を曲げることは出来ません」

「なるほど。つまり質問の加算は大丈夫ってことか。さっきのも質問として計算されているだろうしな」

「その通りです。ところでフィッシャーさん、お身体の調子はどうですか?」

「全く問題ない。それがお前の質問ってことか」

 

 ――本当に聡い男だ。


 未だ顎に手を当て何やらぶつぶつと呟いている彼を見てイルミナは感嘆していた。その聡明さだけではない。何と言えば適切なのかは分からないが、フィッシャーには場を掌握する能力があるように思えた。

 イルミナだけではなく『埋葬』に否定的だったアドラーですら、彼の一挙手一投足に注視している。

そして、それを楽しむかのようにフィッシャーも聴衆に視線を投げる。きっと舞台役者にでもなれば、世界中の人々を魅了できたのではなかろうか。一種のカリスマのようなものを持っているように見えた。

 だが、そんな仮定は何一つ意味は無い。

 何故ならば、彼は連続殺人犯であり――そしてすでに魂だけの存在になってしまっているから。

「まぁいい」と頭上を見上げながらフィッシャー。「質問ってのは、たいしたもんじゃない。嘘を吐いてはいけないというのは理解した。では、言わない、という選択をしたらどうなるんだ?」

「沈黙が答えたることも有り得るでしょうし、問題ないはずです。このというのは、今回のようなケースが非常に稀で、文献にすら資料が残っていないためです」

「なるほどな、オーケイ、理解した」

 フィッシャーはイルミナを一瞥すると、医師のもとへ歩み寄る。

「アルバート、とか言ったな。あんたの質問に対する答えなんだが、悪いんだけど答えられない」

「それは今更隠し立てする程のものですかな?」

「ああ、いや。そうじゃないんだ。俺の身体が悪いのは知っていた。だが、余命半年とまでは知らなかった、そういうことだ」

 両手を広げて、ひらひらと手を振るその仕草にどきりとしたのはイルミナだけではなかったはずだ。参加者たちが吸い寄せられるかのように、とあるひとりに視線を走らせる。その先には、皇太子殿下。殿下を良く知るアドラーですらフィッシャーに姿を重ねたようで、目を瞬かせていた。

「さて、俺からの質問だが」

 そう言いながら、彼は自らが収まっていた棺を漁り始める。何かを探しているようで、やがて「あった」と短く言い、何かを取り出した。

 フィッシャーが凶器でも取り出すのかと、アドラーは腰に手をあてている。拳銃でも持っているのだろう。今の彼にそんなものが抑止力になるとは思えないが。

 アルバートは一歩退き、マッシュは逆に一歩を踏み出し、殿下の盾になろうとしている。イルミナは胸に合わせた手を強く握った。何も変わらないのは殿下とザックの二人だけだった。

 フィッシャーはそんな参加者たちに鼻白む様子も見せず、取り出したものを右手に掲げる。

 煙草だった。

「警戒しているところ悪いんだけどよ、この棺って用意したのあんたらヤードだよな? それにここに運び込まれる前にチェックくらいしてるだろ。次は死人が何かを隠し持っていたとでも言うつもりかい? 言い訳だらけで務まる楽な仕事だよな」

 ここにきて、初めてフィッシャーは感情のこもった表情を見せた。相変わらず冷たい瞳だったが、そこには凍えるかのような冷たいはなく、憎悪の炎で燃えている。

 だがそれも一瞬で消え、感情の読めない瞳に戻る。

 彼が異常にヤードを敵視する理由は、イルミナには何となくであるが理解できた。

 

 きっと彼は憎いのだ。

 それも生半なものではない。自分をこんな世界に産んだ母親も、それらを捨てた父親も、彼を生きながらえさせた売春宿も、それらを形どる全てのものが憎いのだ。

 あまりに憎みすぎて何から憎むべきなのかが分からなくなった。やがてその矛先はこの世界に向かったのだろう。一個の人間にとっての世界なんてちっぽけなものだ。だからこそ、フィッシャーの怒りは彼の知りうる世界、つまりはこの国の象徴でもあるヤード、そして国家に向かった。

 でも、そんな感情は誰だって持っているもの。人には大なり小なりの憎しみがあるはずだ。それがない人間なんていない。誰かに踏みつけられても笑っていないといけない、そんなもの既に人ではない――そうイルミナは思う。

 だからこそ、彼女はフィッシャーに怒りを覚えた。『怪物』だと思っていたものがやはり自分と同じ人間だったのだ。たとえどんな事情があっても人が人を自己の感情だけでどうにかしようなんて間違っている。


 せめてもの抵抗として、イルミナはフィッシャーを思い切り睨みつけた。彼はその視線に気づいたのか、口の端に軽く笑みを浮かべ、手元の蝋燭を手繰り寄せると煙草を咥えて火をつける。

 まるで深呼吸のように深々と煙を吸い込み、そして吐き出す。それを何度か繰り返したあとに、棺で乱暴に火を消した。直後にもう一本を手に取り火をつける。どうやら、生前はかなりのチェーンスモーカーだったようだ。全くの無言のまま、審判の光を睨めつける。何も考えず、ただぼんやりしているようにも見えた。だが、誰も彼に声をかけようとするものはなかった。たっぷり五分は経っただろうか。噛みしめるようにフィッシャーは声をだした。

「俺からの質問だが」

 もう一度、フィッシャーは誰かに言い聞かせるかのように、言葉を煙とともに吐き出した。


「俺の母親はいつ死んだんだ?」

 淋しげに、ぽつりと言う。上空に昇ってゆく紫煙が審判の光に吸い込まれていった。


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