3.絞殺魔

 アンドレア・フィッシャー。

 それが帝都を恐怖のどん底に突き落とした、月明かりの絞殺魔の名だという。

 最初の殺人の被害者である娼婦が働いていた売春宿の清掃係だった男だそうだ。

 母親は売春婦。

 父親は分からない。客の誰かだろうと言われていたが、ついにフィッシャーの母親が真実を語る事はなかった。それより先、フィッシャーが八歳のときにどこかの誰かと消えてしまったからだ。

 それ以降フィッシャーは娼館の女将に育てられた。とにかく酷い環境だったらしい。

 殴る蹴るの暴力は日常的に行われ、娼婦たちの性交渉を見せられることもあったという。もともと内向的であったフィッシャーは更に心を閉ざし、笑顔を見せることすらなくなってゆく。彼のはその少年時代に萌芽したといえるだろう。

 どれだけの闇を抱えていたのかは誰も知らない。そして、それを知る可能性は永劫に失われた。

 最後の犯行があった翌日、フィッシャーは酔っぱらいに刺されて死んだ。病院のベッドの上で己の死期を悟ったのか、彼は細い息で犯行を振り返り、事情聴取に訪れた警察の顔色を青ざめさせた。

 警察よりも更に顔色の悪いフィッシャーは、掠れる声で十を超す行方不明者の居場所を告げる。はじめは冗談だと思っていた警察だったが、全ての場所から遺体が発見されたという連絡を受けると彼を逮捕した。

 フィッシャーは慌てふためく警官たちを見ると、満足気に微笑んでこう言った。


「……俺は世界中の売春婦が憎い。世界中の女が憎い。世界中の酔っぱらいが憎い。これは復讐だ。ささやかな、ちっぽけな、けれども大きな意味がある……復讐だ。俺はこの言葉でお前らを呪う。言葉でお前らを縛る。お前らには理解出来ないだろう。だがそれでいい。それだけで、いい」


 はっきりした声だった。

 命の全てを絞り出したかのように。憎悪の焔で燃やし尽くしたような言葉を吐き終えると、フィッシャーは目を閉じた。見るものによってはどこか満足そうでもあり、反対にどこか不満気でもある複雑な笑みを浮かべていた。

 アンドレア・フィッシャー。享年三十三歳。

 ちっぽけな町の、ちっぽけな売春宿で働いた男は、世界中の人間が誰でも知っている、しかし中身はちっぽけなまま死んだ。

 何故、フィッシャーは死の間際にこんなことを言ったのか?

 他に彼の毒牙にかかった被害者はもういないのか?

 様々な憶測がヤード内でも飛び交い、混乱している。犯罪心理学の権威だとか、探偵だとか、果てには、シャーマンだとかが意見を戦わせているようだった。幾多もの犯罪を暴いてきたヤードも、史上最悪の殺人者の心の中は読めなかった。

 しかし、そんなことは彼女たちには関係のない話だ。


 ――だって、あたしは精神科医でもない、ただの管理人だから。


 イルミナは途中まで読みかけていたアンドレア・フィッシャーに関する書類を乱暴に放り投げる。ヤードによって纏められたというその調書は、彼女が今までに読んだどの書物よりも禍々しかった。

 先日、警官と話をしていた応接室。今イルミナの正面にはザックがいつもの仏頂面で座っている。いつもよりも更に不機嫌なように見えた。

 理由は明白だった。

 今、イルミナが放った調書のすぐ隣にある手紙。丁寧に封を切ってあるその灰色がかった封筒には、ギルドの紋章をかたどったシーリングワックスが貼り付けられていた。

 便箋十枚を超す、長い手紙ではあったが、内容は簡潔なものだ。

 すなわち――「キングダム・ヤードに協力するように。ただし、質問は一切受け付けない」

 今までになかった依頼だったので、ザックとイルミナが協議(とは言え、ザックは主に頷くか首を振るかしかしていなかったが)の上、王都にあるギルド本部に送った手紙の返信がこれだった。

 いつもであれば、言われた通りに仕事をこなすザックではあるが、今回ばかりは気乗りしないようだ。ずいぶんと長い間目を閉じ何か考え事をしていたが、やおら立ち上がり「仕方ない」と零して応接室の扉の向こう側へと消えていった。次いで、モルグへと続く重い扉の音。普段であればこの時間ザックは地下に降りることはないので、『埋葬』に必要な書類を集めに行ったのだろう。


 このモルグは一部の間でと呼ばれている。

 もちろん、それはイルミナの趣味で集めた蔵書を指しているのではなく、ある仕掛け扉から行ける円柱の部屋にその意味は隠されている。地下深くから、今イルミナが座っている地上まで伸びたその部屋には、一万をゆうに越える古代文字で記された書物がところ狭しと並んでいる。

 焚書の憂き目にあった、本来であればなかったことにされた書物たち。その大半以上は何の意味もないただの文献だったが、中には重要な意味を持つものもある。

 それが、『クリウッド戦記』という歴史の真実が書かれているものであり、『死者の書』と呼ばれる魔導書であったりする。


 やがてザックが地下から戻ってきた。その手には二冊の本を持っている。

 一冊は『埋葬』に必要な青い革張りのしてある『死者の書』。

 もう一冊の本をザックは放るかのように、乱暴にテーブルに置いた。『死者の書』よりも一回り以上大きなその本は、表紙に古代文字で題が記されている。

 イルミナにもその意味が分かっているので、ソファーに座ったまま身体を遠ざけようとした。

 本来、古代文字で記された書物には表紙に何も書いてはいない。遥か太古を生きた先達たちにとって、本は中身を読む為のものだからだ。

 しかし、中には読むことで異変をきたす書物もある。イルミナも最初は訝っていたが、とある一冊に目を通して一ヶ月体調を崩して以来、その考えを改めた。魔導書よりも遥かに強力で、ある意味では抗いがたい魅力をも持つそれらの書物を『呪書』と呼ぶ。今ザックが持ってきたものこそ、その呪書であった。

 真っ黒な、イルミナが見たこともない生物のものであろう革の表紙には、右下にこれもどす黒く変色した、本来は赤で記された文字で、閲覧厳禁とある。

 題は『魂の保管場所』。

 イルミナは、向かいに深く座りこんだザックの顔を見つめる。相変わらず表情はなかったが、どこか青ざめているように見えた。

 イルミナの目前に置かれたこの呪書を彼女は読んだことはなかったが、どのような時に使うかは知っている。

「こうするしかないだろう」

 ザックのよく通る声が、応接間に響いた。イルミナは虚空を眺めている。まるで、宙に浮くザックの言葉を探しているかのよう。

 それが引き金になったかのように、それぞれが動き出した。

 ザックは、『埋葬』に必要なものを集める為にもう一度モルグへ。

 イルミナは、便箋に向かい手紙を書く。宛先はヤード。内容はもちろん、今回のを諾する旨。

 今までに例を見ない特殊な『埋葬』。此度はモルグが日にちを指定することになった。呪書を使うには条件があるからだ。幸い、その日は近い。


 アンドレア・フィッシャーの『埋葬』は翌月、年で数回しかない冬の森に雪が降らない日に決まった。


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