第5話

「汚い部屋だけど」


 と、瀬川くんを部屋の中へ通した。部屋の掃除は毎週土曜にしているため、木曜の今日は散らかっている方だ。しかし瀬川くんは「全然綺麗じゃん?」とおどけた。


 中央に炬燵があり、右奥にテレビ、左の壁側には腰高の本棚と小さな洋服ダンス、さらに組み立て式のハンガーラックが並ぶ。部屋干ししてあるパンツを含め、日曜に回した洗濯物が掛ったままだ。あらかじめ誰かが訪ねてくると分かっていたら片づけていたが、気にならない振りをする。押し入れの中も、布団や荷物もろもろ乱雑に突っ込んであり、人に見せられる状態ではない。開けられないようにしないと。


 瀬川くんに炬燵を勧め、「冷たいお茶でもいい?」と聞く。「なんでもいいよ」と言ってくれたので、とりあえずとキッチンで電気ポットの電源を入れつつ、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、さらにガラスコップを二つ、炬燵の上へ置いた。普段からそこに置いてあるノートパソコンが邪魔だったため、本棚の上へ移動する。出かける前にセットしていた炊飯器もあったが、今は放っておく。


 瀬川くんがこの部屋に来たのは初めてのことだが、僕が一人暮らしだということは知っている。数年間会話がなかったとはいえ、元々同じマンションの隣に住んでいたため、両親のことは知っているし、引っ越すときに挨拶もしていた。


 それにしても、なんでだろう。


 偶然会ったからせっかくだし、くらいの軽い感覚なのだろうか。それにしては交流が少ない相手だ。そして、やはり考えてしまうのは今朝の出来事だ。あのとき、目が合った。そのことで何かあるのではないか、と。

 もしかして待ち伏せされていた? 体が強張る。中学時代の噂も頭をよぎる。喧嘩やタバコ。自分とは正反対の場所にいる人だ。脅される、なんてことはないと思いたいけど。


 そんな思考の空回りをよそに、瀬川くんは落ち着いた様子で、穏やかな表情を崩すことはなかった。強面な顔とのギャップからか、妙に優しく感じるものでもあった。


「どっか行ってたの? デートの帰りとか?」


 コップにお茶を注ぐと、瀬川くんは「サンキュー」と言い、冷やかすように笑った。


「いや、バイトの帰り」


 苦笑いを返す。


「あ、バイトしてだ。どこで?」

「駅前のスーパー」

「あ~、そうなんだ」

「そっちはどこか行ってたの?」


 ようやく、瀬川くんに言葉を投げることができた。


「いや、適当にふらついてただけ。それで偶然泰樹くんに会ったからさ」


 やっぱり、特に意味があって来たのではないのだろうか。

 瀬川くんはくつろぐように体を後ろに倒して両手をつくと、ぐるりと部屋を見回した。


「でも、やっぱ一人暮らしっていいな。うらやましい」


 腰を下ろして炬燵に入りながら「そう?」と相槌を打つと、いたずらっぽく表情を崩して続けた。


「だってやりたい放題じゃん」

「まぁ、そうなのかな」

「彼女連れてきたことあるでしょ?」


 そういう意味だったかと、もう一度苦笑いを返す。


「いや、ないよ」

「マジで? 泰樹くん彼女いないの?」

「あ、うん。そうだね」

「マジか、泰樹くんもてそうだけどな」

「そんなことないけど、竜くんは――」


 ただ会話を返す、その感覚でオウム返しをしようとした瞬間、その失敗に気が付いた。しかし途中で言葉を止めてしまうのも不自然であり、しらばっくれるのも同様だった。そのまま続けるしかない。


「――か、すみちゃんと、付き合ってるんだっけ?」


 その事実を聞くこともそうだし、「香澄ちゃん」と、女の子を下の名前で、「ちゃん」付けで呼ぶことに声が上ずった。だけど昔はそう呼んでいたわけで、今更名字で言うのもおかしく、そのまま言葉にした。同時に、「竜くん」という呼び方も久しぶりだ。しかし同性だからか、多少の違和感はあったものの、こっちは抵抗なく言えていた。


 だけど、そんな葛藤を瀬川くんは気に止めることもなく、


「そうだよ」


 と、あっさり頷いた。そして、


「ただ、今ちょっと喧嘩してるんだけどな」


 自ら付け足した。視線を外し、ちょっとした失敗談を話すようにはにかむ。


「そう……なんだ」


 その言葉と今朝のことを直感的に結びつけて、口籠ってしまう。付き合っているというのはやっぱり事実で、その上で、あのことがあったのだ。

 やっぱり、そこを避けるわけにはいかないのか。もし瀬川くんの口からそれが出てきたら、岸くんたちと話したときのように、知らばっくれることはできない。目が合っていたのだ。しかし、


「まぁ、そのことはいいよ」


 瀬川くんは言った。

 ここに来たこととそれは関係ない、ということなのか、目が合ったことも気づいていなかったりするだろうか、なんて都合のいいことも考えるが、それはさすがにあり得ない。あれだけはっきりと目が合ったのだ。今は、瀬川くん自身があのときのことを思い出したくないだけなのかもしれない。


「何かテレビ見ない?」


 話題を変えようとしてか、瀬川くんがこちらを見た。


「そうだね」とリモコンを手に取り、テレビをつける。

「何か見てるテレビある?」

「いや、泰樹くんの好きなのでいいよ」

「そう?」


 夜の十時台、瀬川くんが好きそうなのは何なのだろうかと考える。適当にチャンネルを回すと、バラエティやドラマやニュース……とりあえず、バラエティのトーク番組にあわせることにした。

 すると瀬川くんは、出演しているお笑いタレントや俳優、女優について、いくつか話題を上げてくれた。この芸人はあの女優と付き合っているんだとか、離婚したんだ、とか。


 芸能人に詳しくはないが、なんとなくテレビやネットを眺めていると入ってくる情報でもあり、単に会話を続かせようとして言ってくれているのだろう。「へぇ」とか「そうなんだ」と、素直に相槌を打った。


 しかしそんな話題もすぐに底をつき、瀬川くんはさりげないながらも少しトーンを変えて、改まるように聞いてきた。


「そういや、泰樹くんは大学?」


 急な話題に動揺する。進路の話。個人的にはあまり話したくないことだったが、答えないわけにもいかず、嘘をつくわけにもいかない。


「あ、違うよ。就職」

「え? 働くの?」


 目を丸くして聞き返される。


「うん、まぁ」


 東戸ノ上高校は、あえてどちらかで表現するならば進学校の部類に入り、卒業する生徒の九割近くが大学へ進学する。だから就職を選ぶのは少数派だ。それもあって進路のことはあまり人には言いたくなかった。「自分が周りとは違う」とは見られたくない。多分、そんなのは自意識過剰なのだと思うけれど。


「ふぅん。そっか、偉いなぁ」


 瀬川くんは本当に感心するように息を吐いた。何で、そう思うのだろう。


「別にそんなことないと思うけど、竜くんは大学?」

「俺? まだ決まってない」


 カラッと出されたそのセリフに、言葉が詰まる。

 どう捉えればいいのか。まだどこの大学からも合格がでていないのか、もらってはいるけど本命がまだこの後にあるのか、浪人するか迷っているのか。今の流れから就職でないことは想像できる。他に考えられるのは……。


「何もやってないんだ」


 瀬川くんはそう続けた。


「……何も?」

「そう。どこの大学も受けてないし、就活もしてない」


 さっき「朝井さんと喧嘩してる」と言ったときと同じ、はにかんだ顔だった。

 どう反応していいのか分からず、とりあえず愛想笑いを浮かべる。


「大丈夫なの?」

「さぁ。周りはうるさいんだけどね」


 まるで他人事のように言う。やっぱり愛想笑いで相槌を打つしかできないまま、やんわりと言葉を出す。


「まぁ大学に行くとしても、浪人は珍しくないみたいだし、ゆっくりやればいいのかな?」


 当たり障りのない言葉。「何もしていない」のは、他にやりたいことがあるのか、お金の問題か、他に何かどうにもならない理由があるのか、そんなことも思い浮かび、突っ込んだことは聞けなかった。


 瀬川くんの両親は、小学校へ上がる前に離婚している。それからは母子二人暮らしだ。そのことが何か理由になってしまっているのかもしれない。だとしたら簡単に触れていいものではない。

 精一杯に思考を回したが、瀬川くんは、こちらの言葉を額面通り受け取ってくれたのか、握ったコップを見つめてつぶやいた。


「まぁ、そう言う考え方もできるか」


 それから、その真剣な表情を誤魔化すように緩めると、


「将来のことは考えてないけど、でも家は出たいな。やっぱ一人暮らしがしたい」


 そう言って、再び部屋を見回した。

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