第2話 急変
それからひっそりとしたカフェで、オレンジジュースとイチゴタルトを注文した。
キラキラと輝くイチゴに、甘さ控えめのカスタードクリームをたっぷりのせてパクリッ。厚めのタルト生地もしっとりサクサクで完璧なおいしさ。
「甘さと酸味が絶妙で濃厚ー。これ、毎日食べても飽きないよ。病院の中なのにすごいな」
「病院だからよ」
間髪入れずに静かな声で返された。
しゅんとしてしまうと、香奈恵さんはやれやれと言いたげな表情で、全身麻酔の話をしてくれた。
「あれって不思議なのよね。睡眠ガスを吸うと五秒で寝てしまうの。話には聞いてたけど、信じられなくて」
「絶対に寝るもんか! って気合いを入れてもダメなんですか?」
「そうなの。強靱な精神力を見せつけてやろうと思ったのに、気がつけば手術が終わってた」
香奈恵さんは紅茶を一口飲んで、また「不思議なの」と繰り返す。
「眠くなりますよ、って言われたときは、まったく眠くないの。意識もはっきりしてるから、麻酔が効いていない? とか思っていると、もう全部終わって病室で寝てるわけ。本当に記憶がバッサリ抜けてるから、気持ち悪いというか、不思議というか」
「変な感じですね」
「うん、そうなの。でもあたしは目が覚めたから。あのまま目が覚めなければ、死んだこともわからないだろうなって」
死、という嫌な言葉が飛び出した。
腕を組んで、短い息を吐いた香奈恵さんは、きっと水樹のことを考えている。
私は考えたくないから、黙々とケーキを食べ続けた。
香奈恵さんが退院してから数日後、はじめて水樹からメールが来た。
発熱や悪寒。常にインフルエンザのような症状が続いている。そのような状態でも、身の回りのことはひとりでやらなければならないから、辛い。
せっかく会いに来てくれたのに、ごめん。
今は骨髄移植が終わって、香奈恵さんの造血幹細胞? が新しい血液をつくり出すのを待っている。
順調にいけば、三月に退院。四月には会えると。
水樹らしい報告書のようなメールだった。
「早く会いたいなー」
カレンダーに目を移して、一、二、三、と指を折って数えた。するとまた、水樹からのメールが届く。
目を通すと、一通目とは様子が違っていた。
真っ先に、私が自宅に戻ったことを心配している。
ご飯はバランスよくしっかり食べろとか、寒くないか? 寂しくないか? 勉強は大丈夫か? そろそろ進路先は決めたのか? と、質問だらけ。
「完全に子ども扱いだ……」
ムスッとしながらスマホをタップして、返事を考える。
自宅に戻っても、前のように寂しく感じない。香奈恵さんが花やぬいぐるみを置いていくから、華やかになった。
ご飯は、ちゃんと食べている。時々自分でつくるけど失敗して、……失敗する。たまに成功するから、もっと腕を磨いて水樹を驚かせたい。
勉強と進路は……、正直に書くと水樹が真っ青になって心配しそう。だから、赤点や補習がなくなったことだけを知らせよう。
あれこれ考えていると、急に頬が緩んでにやけてしまう。
きっとはじめのメールを送信したあと、内容が報告書みたいで味気ないと思ったんだろうな。だからすぐに、私を気遣うメールを送ってくれた。
辛くて大変なときでも、水樹は私の心配をしている。なんだかとても愛されているみたいで、スマホをギュッと抱きしめた。
水樹がいるだけで、心強い。寂しさや不安も感じない。
春になれば――。
今まで味わったことのない幸福感に包まれて、その日は眠った。
そして、水樹のことばかり考えていたから、夢を見た。
平凡な景色を眺めていると、水樹の声が聞こえてくる夢。どこにいるのか探していると、薄紅色の桜が豪華な春を彩っていた。
『水樹、桜だよ』
大きな声を出したのに、返事がない。
やがて花びらがひとつ、踊るようにひらひらと落ちてくるから、両手でそっと受け止めた。すると花びらは溶けるように消えていく。
『雪みたい』
そのつぶやきに水樹が『違うよ』と答えて、空を仰ぐ。
そして形のいい目に悲しみの色を浮かべて、ハッキリ言った。
『それは、僕の命だよ』
息が凍るような恐ろしさを感じて、目が覚めた。
心臓がバクバクして、胸がギュッと締めつけられる。ただの夢だとわかっていても、薄紅色の淡い光がすっと消えていく感触がまだ残っていた。
嫌な夢を見たせいで、その日は一日中、調子が悪かった。でも、時はなにごともなく過ぎていく。
朗報も届いた。
白血球の数も、血小板の数も上昇している、と。
いい数値が出たのなら、少しずつ確実に回復していると思っていた。
夢のことも忘れて、このまま順調に進むと信じていた。その話を香奈恵さんにしたら、「それは違うよ」と、あっさり否定された。
「白血球が増えたら、リンパ球も増えるの。リンパ球の主要種類は?」
「T細胞、B細胞、ナチュラルキラー細胞?」
「正解。リンパ球たちが活発になれば、どうなると思う?」
「バイ菌を退治してくれるんでしょう」
「そう。もともとあたしの中にあったリンパ球たちが、骨髄移植でカナ兄ぃのところへ移動してるでしょう。だからカナ兄ぃの正常な臓器を異物と判断して、攻撃しちゃうの。その逆もあって、カナ兄ぃの免疫細胞が、あたしの移植片を異物扱いして、攻撃する。合併症なんかもあって」
「危険なんですか?」
「軽い反応なら問題ないというか、むしろ大歓迎。再発が減って、予後もよくなるの。重傷の場合は大変だけど、カナ兄ぃはまだまだ感染症の心配もあるし、楽観視は出来ないよ」
口を酸っぱくして教えてくれた。
不安や心配になっても、骨髄移植は成功した。水樹なら大丈夫と心のどこかで決めつけてしまう。
その二日後の早朝、スマホがけたたましく鳴った。
眠い目をこすって「もしもし」と尋ねると、香奈恵さんの改まった声が耳に届く。
『ユイ、落ち着いて聞いてね。昨夜、カナ兄ぃの様態が急変した。すぐに来て』
「は? なに言ってるんですか。……そんなこと」
あるわけない。
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