水樹にありがとう

第1話 笑ってしまう

 一匹の赤とんぼが、すいっと薄雲のかかる空を滑るように飛んでいる。

 私は空に向かって手をのばした。十月の空も高くて遠い。

 香奈恵さんが骨髄提供のために入院するから、私は自宅に戻った。遠慮しなくていいと言ってくれたけど、水樹の息づかいを感じる部屋でひとりになりたくない。会いたい気持ちが風船のようにふくらんで、破裂したら、また迷惑をかけてしまう。


 どうせひとりになるなら、自宅がいい。ふと寂しくなっても、私にはスマホがある。待ち受け画面は、はじめてのツーショット。水樹がかっこいいのだ。

 顔全体のパーツが一番いい形のバランスで並んで、ちょっと眠そうでも、朗らかに笑っている。……それに比べて私は、変な顔。

 急に肩を抱かれて、熱い息が首筋にかかるから……。耳もとで「笑って」とささやかれても、リンゴだ。真っ赤っかでみっともない。

 撮り直したい。でもそれは、四月になってからかな。


「いってきまーす」


 誰もいないのに、自然と声が出た。

 これから水樹のいる病院へいく。水樹に会えるかどうかわからないけど、骨髄提供のために入院している香奈恵さんから『暇』というメールが届いた。

 よくわからない人だけど、自宅に戻ってから頻繁にメールが届く。


 入院初日は、貴重な経験ができるからワクワクしていたみたい。でも、病と闘っている人たちの中で、香奈恵さんだけが元気いっぱい。とても心苦しかった話。

 二日目はいよいよ本番。

 腰のあたりにお箸ぐらいの針を二本刺して、骨髄液をとる。とても痛々しく感じるけど、全身麻酔だからまったく記憶にない。腰に鈍い痛みがあるだけらしい。

 その痛みも翌日には軽くなって……朝から暇。暇すぎると嘆いている。

 

 ようするに「退屈だから見舞いに来い」ということだった。

 土曜日の駅は人が少ない。電車の中も空いていた。流れていく景色をぼんやり眺めながら、香奈恵さんも友だちがいないのでは? と考えてしまう。


「ユイ、遅かったねー」


 病院にたどり着くと、すぐに声をかけられた。

 病院のロビーはどこか緊張感を含んでいるのに、大きく手をふる香奈恵さんの周りは空気が違う。ひとりだけスポットライトを浴びているような、美しさ。病院が用意した冴えないパジャマ姿でも、可憐に見える。


「ケーキ、おごってあげる。ついてきて」

「あ、あの……水樹は?」


 水樹もここに入院している。

 香奈恵さんが入院する少し前に、骨髄移植に向けた前処置もはじまっていた。


「初日はケロッとしてたのに、やっぱり甘くないね。胃の中が空っぽでも、ずっと吐いてる。それでも薬は飲まないといけないし、色々なチューブにつながれたままで辛いみたい。自分が自分でない。もうわけがわからない状態だって。今から会いにいく?」


 すぐに返事ができなかった。


「まあ、どうせ会えないと思うから、おいで」


 香奈恵さんは私の手首をつかんで、ずんずん進んでいく。そして一緒に月を眺めた病室ではなく、完全無菌室の前で足を止めた。

 ガラス越しに、透明なアクリルのような箱が見える。でもその中はカーテンで遮られて見えない。


「ここの電話でカナ兄ぃと話ができるけど、カーテンが閉まってるときは無理。話しかけるなって意味だから、ごめんね」


 すぐそこに水樹がいる。

 一目、一言、……会いたい。

 冷たいガラスに手を添えた。

 青白い月明かりの中で水樹が倒れそうになったのに、私はうろたえることしかできなかった。

 あのとき、水樹は歯を食いしばって無理をしようとした。私がいたら、苦しい状況でも平気なふりをする。そんなこと、させてはいけない。


「香奈恵さん、ケーキ。私、三つくらい食べますよ」


 その言葉に、香奈恵さんはちょっと驚いた目をした。でもすぐに、ニッと笑う。


「それじゃ、あたしの無駄話にもたっぷり付き合ってもらうからね」

「任せてください。耳栓を用意してますから」

「なにそれ、ムカつく~」


 冗談ですよと笑いながら、歩きはじめた。

 だけど水樹を置き去りにしたような気がして、後ろ髪を引かれる。我慢できずに振り返ろうとすると、


「ユイ、このまま前に進もう。カナ兄ぃもそれを望んでる」


 柔らかく、優しい声が耳に届いた。

 不意に涙がこぼれそうになったから、慌てて上を向いた。それからエレベーターのボタンを押したとき、はじめて香奈恵さんに出会った日を思い出した。

 私と一緒に帰るのは嫌だと言って、エレベーターにのらなかった。それが今では。


「なんか、面白い」

「急にどうしたの。泣いたり、笑ったり、忙しい子ね」

「はじめて香奈恵さんとしゃべったとき、すごく感じが悪かった」

「嫌いだったから、当然でしょう。今もたいして変わってないよ」

「えっ」

「驚くことないでしょう。カナ兄ぃが治療に専念するためなら、あたしはなんでもする。ユイのことが嫌いでも仲良くするよ」


 ふふんと鼻の先で笑ってエレベーターに乗り込んでいく。


「私は、香奈恵さんに感謝してますよ」


 勇気を出して素直な気持ちを口にしたのに、知らん顔。

 でも一階に到着して扉が開くと、


「ユイが嫌いでもお弁当はつくるし、勉強もみてあげる。もともとカナ兄ぃがユイにしてあげたかったことをしてるだけだから、感謝するならカナ兄ぃにして。あたしは関係ないし。そもそもユイのせいで「顔も見たくない」って言われたり、怒られたり、いいことなんかひとつもないんだから」


 白いはずの頬を赤くして、早口にまくし立てられた。

 香奈恵さんはよくわからない人だけど、ちょっと私に似ているかも。そう考えるとやっぱりおかしくて、また笑ってしまう。

 

「ケーキ、いらないの?」


 限りなく冷たいまなざしで睨まれたけど、怖くなかった。むしろほほ笑ましい。





 

 


  

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