第3話 いい先生、やめました
言葉にしなくても、ユイは知っている。「ここに来るな」と言われることを。
そしてまた我慢するんだ。小さな体に抱えきれないほどの重荷を背負って、大丈夫と強がる。手に力を込めて、その準備をしている。
せっかく会えたのに「来るな」は違う。もっと違う形で大切さを伝えたい。
「ユイ、おいで」
ベッドから抜け出して、月を眺めた。もう僕は教師ではない。
「水樹、寝てないと」
「平気。それよりも、ほら。月光浴」
まぶしすぎる太陽と違って、窓から差し込む月明かりは優しい。
「月光浴には睡眠の質を上げて、リラックスする効果があるらしい」
「あ、それ聞いたことがある。美容にも効果があるって」
僕の横でユイも月を眺める。
愛らしい目をくりくりさせて、僕の言葉を信じていた。
おでこのあざを気にしてよく顔を見せてくれないから、明るい窓辺に誘っただけなのに。
「かわいいな」
「え、丸いから? かわいいより綺麗だよ」
青白い月光を浴びたユイがかわいいのに、月の話だと思っている。本当に無邪気で、無防備で、愛しい。
「僕が……元気になればいいだけか」
「ん?」
「病を克服すれば、いつでも会える。ユイに辛い思いをさせない。そう考えたら、乗り越えられる気がしてきた。ありがとう」
頭をなでるとユイは嬉しそうに目を細めて、顔をほころばせた。でもまたすぐにハッとして、わたわたしながらおでこを隠す。
そこまで気にすることなのか。首をひねると「女心は繊細で複雑なの!」と、目をつりあげる香奈恵が浮かんだ。
「そういえば、よくここに来られたな。家族以外は面会できないはずだが」
「それは、香奈恵さんが」
「妹の妹ってウソをついたのか?」
ユイは違うと首をふった。それから耳を赤くして「こ……」とだけ口にした。
こ? と聞き返してのぞき込むと、ユイの口は「い」の形で止まっている。ピンときた。
「そっか、恋人か。恋人は家族みたいなものだから……って、ユイ?」
耳を隠して、背を向けていた。
少し前屈みになった丸い背中から、恥ずかしさと照れがあふれているようだった。
「初々しいな。そんなに照れなくても」
あまりにもかわいかったから、後ろから抱きしめた。
「は? 別に、照れてないし。勘違いしないでッ」
僕の腕の中でジタバタと暴れながら、怒っている。それもかわいい。
難しいことは考えずに、柔らかくて温かい、この温もりだけを守ろうと決めた。それなのに、急に目の前が曇った。頭からさーっと血の気が引いていく。
「水樹!?」
倒れそうになった。悲鳴みたいな声が耳に入っても、突然の不調に余裕がない。
壁にもたれて、時間を確認した。
「さっき、睡眠導入剤を飲んだから……それのせいだ。眠い」
窓際からベッドまで五、六歩しかない。たったそれだけの距離でも倒れそうで、足を前に出すのが怖かった。
「看護師さん、呼ぼうか?」
お願いしようと思ったが、香奈恵が病室を出てからもうすぐ十分。面会は十分以内だから、そろそろ――。
「五分たったよー。ユイ、帰る準備して……って、は?」
ノックもせずに香奈恵が入ってきた。
そして香奈恵の目に映ったのは、壁にもたれて息を切らしている僕と、寄り添うユイだ。安静の「あ」の字もない。
「バカ、バカ、バカッ! なにやってるの。カナ兄ぃ、どうして起きてるの。寝てないと。それに、ユイッ」
さらに厳しい声が続いた。
「カナ兄ぃにはふれるなって、言ったよね。ただでさえ免疫力が落ちてるのに」
「やめろ、ユイは悪くない。月が綺麗だから僕が誘っただけだ。それよりも手を貸せ。眠くて……」
「眠い?」
「ほら、さっき飲んでただろ」
睡眠導入剤の袋を指さすと、香奈恵も時間を確認した。それからユイをチラッと見て、手を貸してくれた。
「まずはベッドに座って、呼吸を整えて」
深呼吸を繰り返すと、少し落ち着いた。もう大丈夫と笑って見せたが、香奈恵は脈を測ろうとする。
その手を振り払った。
香奈恵は僕のウソに気づいていた。
さっき飲んだ睡眠導入剤は、効いてくるまで十五分から三十分かかる。安静にしないで起きていたから、貧血を起こしていると、すぐに見抜かれた。
今の僕がこのまま無理をすれば、全身のあらゆる場所に酸素欠乏の症状が起こる。運悪く心臓の酸素が欠乏してしまったら、狭心症を引き起こすが、そんなことユイに知られたくない。それよりも、まだ傍にユイがいてくれるから……。
「写真、撮りたい。そこに僕のスマホがあるから」
「わかったから、しゃべらないで。ユイはカナ兄ぃの横に」
重い頭をあげると、不安に押しつぶされそうなユイがいる。
手をのばして引き寄せた。
「心配するな、眠いだけだから。笑って」
細い肩を抱いて耳もとでささやくと、青くなったユイの顔が面白いほど赤らんでくる。
「はい、撮るよー」
カシャッと、勢いのいいシャッター音がした。
「それ、……印刷して。消毒しやすいように、ラミネート……」
「わかった、って言ってるでしょう。早く、寝て。ユイ、帰るよ」
ユイの目に、まだ怯えの色が残っていた。
安心させてやりたいのに、息が苦しい。もどかしさに苛立ちが募って、奥歯をかみしめた。するとユイの表情が変わる。
「水樹、大丈夫だよ!」
僕の手を取り、まっすぐな目をした。
「今度はひとりでいかないから、桜を。春になったら空に咲く桜を、水樹と一緒に見たい。ううん、きっと一緒に見てるから、安心して休んで」
澄み切った青空に浮かぶ桜と、柔らかい風に運ばれてくる土の匂い。真新しい春の陽気を思い浮かべると、力強い生命を感じた。
「楽しみだな」
そう声に出したつもりだが、意識がぼうっとしてよくわからない。でもユイが、はにかみながら嬉しそうな顔をするから、ゆっくりと目が閉じていく。
このときなぜか、もう二度と会えないような気持ちになった。
翌日、目が覚めるとユイはいない。
いつもと同じ朝を迎えて、検温、血圧測定、体重測定、採血やら点滴がはじまる。
あまりにも代わり映えしない時間が続くから、昨日のことが夢や幻のように感じてしまう。だが、午後になると香奈恵が来た。
「カナ兄ぃ、写真できたよー」
「早いな」
はにかんだ笑顔のユイと僕がいる。
あれは夢ではなかった。ホッとする気持ちと、夢さえ見ない、深い眠りに落ちる間際の気持ちを思い出す。
嫌な予感だけがずっと尾を引いていた。
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