第2話 大切な人

「久しぶりだね、カナ兄ぃ。元気にしてた?」

「元気なわけないだろ」


 薬を口に放り込んで水を飲んだ。そして電気をつけようとしたら、


「電気はつけなくていいよ。ほら、月が出てるから」


 墨で塗りつぶしたような暗闇に、丸い月がくっきりと浮かんでいる。


「綺麗だな。そういえば今日、骨髄移植の説明があった。治療後のリスクに男性不妊があるって」

「そりゃ、抗がん剤や放射線照射だもん」

「結婚すれば子どもができて、当たり前のように家族を築けると思っていたから、また欠陥が増えた」

「別に結婚しなくても、子どもがいなくても、幸せに生きていけるよ」

「まあ、そうだけど。ユイはどう思うかなぁって」

「え! 結婚とか子どもとか考えてるの? ユイはまだ高校生だよ」

「そうだけど、ほら、……やっぱり、もういい。おまえにこんな話をしてもなぁ」


 金色の月を眺めて、ため息をついた。

 このまま寝てしまうには惜しいほど美しい月でも、立っているだけで疲れてしまう。ベッドに戻ろうとしたら、香奈恵の後ろでなにかが動いた。


「ん?」


 のぞき込もうとしたら、「見つかった、どうしよう……」と消え入りそうな声がする。


「カナ兄ぃ、よ、よかったわね。ユイの気持ちが知りたいんでしょう? だから、ほら、連れて……き……まし……た?」


 僕の様子をうかがいながら、香奈恵の声も小さくなっていく。

 いつ急変するかわからないから、面会時間はあって、ないようなものだった。だが、家族以外の面会は禁止されている。無菌病棟は管理が厳重だから、ユイが来るはずないのに……。

 香奈恵の後ろからユイがちょこんと顔を出して、すぐにまた隠れた。


「は? なに? 今の……、本当に……ユイ?」


 思わず目を疑った。

 月明かりしかない病室でも、香奈恵が「怒らないでー」と目をつぶっているのがわかる。その後ろでユイが身を小さくしていた。


「あ、あたしは悪くないからね。ユイがカナ兄ぃに会いたいって泣くから。何日か我慢させたんだけど、ほら、あたしはドナーでしょう。もうすぐ入院だし、ユイをひとりにしておけなくて……カナ兄ぃ?」


 驚きすぎて見開いた目から、すっと涙がこぼれ落ちていた。

 闘病中は絶対に会わないと決めていたが、込み上げてくるものが多すぎて、言葉にならない。……だが、さっきの話を聞かれている。

 ベッドに腰をおろして、頭を抱えた。

 ユイはまだ高校生なのに、結婚とか子どもとか。先走った話を聞かれてしまった。死んだふりしたいくらい恥ずかしい。


「ほ、本当に香奈恵さんは悪くないの。私が水樹に会いたいって、わがまま言って。嫌なら、もう帰るから」


 僕が黙り込んだから、かなり怒っていると勘違いされた。

 ユイと香奈恵は顔を見合わせて、病室から出ようとする。

 帰したくなかった。


「いいから、そこに座って。今、電気を」

「待って、電気はつけないで。ちょっと前に、熱中症でぶっ倒れたのよ。ほら、あたしと違ってユイの鼻は低いでしょう。だからおでこをぶつけて、あざに」

「ち、が、い、ま、す。カバンがあったから斜めに倒れて、鼻をぶつけなかっただけですぅー」

「大丈夫なのか?」


 ユイに近づこうとしたら、香奈恵が右手を突き出して「ストップ」と。


「あまり動き回らないで。カナ兄ぃの状態が一番いいときを狙ってきたけど、立ってるだけで疲れるでしょう。話はベッドに入って、楽な姿勢になってから。ユイも長話はできないからね」

「しばらく来なかったのに、香奈恵はなんでも知ってるな」

「医師の卵をなめないで。それじゃ、五分後にー」


 片手をひらひらさせて、香奈恵は病室を出た。

 しんと静まり返って気まずい。ユイはおでこを気にして下を向いたままだ。


「倒れたって本当か?」


 こくんとうなずいて、壁のような坂道に挑戦して倒れたことを話してくれた。


「僕が余計なことを言ったから、ごめんな。おでこ以外は平気か?」

「あ、謝らないで。私の準備不足だったの。思いつきでいったから、お茶がなくて。でも、あの坂は本当に壁だった。水樹が話してた通り、すごく綺麗な青で、空にのぼってるみたいだったよ。おでこ意外は、膝もぶつけちゃって」


 おもむろに足を組みながら、スカートをたくしあげた。

 丸々とした膝に、青あざと腫れたようなあとが痛々しく残っている。だが太ももの一部も、青白い月明かりの中にぼうっと浮かぶから、目をそらした。


「あとは……お母さんが再婚するって」

「えっ?」

「お父さんもお母さんも離婚してるから、平気なはずなんだけど、……心のどこかで待ってたみたい。バカみたいだよね。家族がそろうことなんて、絶対にないのに」


 ユイはにっこりと、口じりにえくぼを浮かべた。


「すっかり忘れてたけど、確かにあったんだ。お父さんと、お母さんと、私で笑ってたときが……。それを思い出しちゃって」


 その声がとても辛そうだった。


「ごめんな、傍にいてやれなくて」

「水樹が謝らなくても」

「病気のことも隠してたし……、泣かせてばかりで」

「水樹に会えたから、もういいや。……水樹は私に会いたくなかったのに、ここに来てごめんなさい」


 ユイはまたうつむいた。膝に置いた手にギュッと力を入れているのか、手の節が白くなっている。


「誤解しないでほしい。僕が難病を患ってなかったら、ずっと楽しい日が続いていたと思う。ユイに治療する姿を見せたくないんだ」


 そっと手を重ねると、ようやく顔をあげてくれた。でもすぐに顔を伏せる。

 泣き出しそうな顔が一瞬見えたが、話を続けた。


「移植前に致死量の抗がん剤を投与されて、同時に、水分の点滴で抗がん剤の毒素を排出するんだ。この処置で兄貴は死ぬほどの苦しみを味わった。さらに放射線治療で強い副作用に襲われて……治療の中止を求めてきたのに、僕は「頑張れ」としか言えなかった。狭い病室から出してやりたかったのに、苦しめることしかできなかった。それを今でも悔やんでる」


 あの日のことを思い出すと、胸の奥が痛い。酷いことをしたのに、のうのうと生きているのが申し訳なくなる。


「僕の大切な人に、そんな思いをさせたくないんだ。だから」


 もうここへは来ないでほしい。そう言いかけたが、ユイの小さな手に力が入るのを感じた。







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