僕とユイのわずかな時間
第1話 顔が熱い
朝晩は涼しくなりましたね。そのような会話を耳にしても、無菌室にいるからわからない。
水色の空に薄雲が張りついているのを目にして、ほんの少し秋を感じる程度だ。早くここから出たい。
「水樹さん、骨髄移植の日程ですが」
主治医の熊谷先生が、四角い顔をキョロキョロさせた。
「妹なら来てませんよ」
僕の言葉に残念そうな顔をする。
五十路手前で頭には白いものが混じっているのに、やたらと香奈恵のことを聞いてくる。看護師さんからの情報だと、息子の嫁を探しているらしいが冗談じゃない。
「最近、お忙しいのですか? まさか、デート」
「さあ、知りません」
顔も見たくないと怒ってから、香奈恵は来なくなった。
でもそのかわり、メールを頻繁に送ってくる。件名を「お風呂あがりのユイ」とか「ユイの寝顔」とかにして、必ず目を通すように仕向けてくるから、たちが悪い。そして肝心の画像は後ろ姿だったり、手の一部が写っていたり、焦げたハンバーグもあった。
香奈恵は僕が降参するのを待っている。ユイの画像がほしいなら謝れ、と。
卑怯なやり方に屈したくない気持ちがあっても、
『すまん、僕が悪かった。くれぐれもユイを頼む』
あっさり降参だ。
それからソワソワして待っていたが、画像が来ない。二日ほど連絡がない。このようなことは今まで一度もなかった。
ユイも香奈恵もすぐ怒るから、あのふたりが仲良くやっているとは思えない。なにかあったな……。
「見にいきますか?」
「えっ! いいんですか?」
驚いて声をあげると、熊谷先生と看護師さんが目を
「構いませんよ。ここの病棟は、手術室と同等の空調設備を備えた無菌病棟ですから、ゆっくり見学してください」
「あっ……、病室を見る……ですか」
骨髄移植の治療がはじまる前に、無菌室から完全無菌室に移動する。それを「見にいきますか?」と聞かれただけだった。
ユイに会えるはずないのに、勘違いして恥ずかしい。
「水樹さん、車椅子にのりますか?」
「運動不足なので歩きます」
手すりをつかんで、ゆっくりと歩いた。
看護師さんは僕のペースに合わせてくれるが、熊谷先生は足早にいってしまう。少しペースをあげて歩いてみると、すぐに息が切れた。
「大丈夫ですか? 無理しないでください」
無理をしているつもりはない。入院する前なら、大したことない距離だ。それでも僕の体はボロボロで情けなくなる。
「こちらが完全無菌室です」
看護師さんが病室の扉を開けなくても、ガラス越しに室内がよく見えた。
ビニールのカーテンにベッド。これはあまり変わっていない。ただベッドの周りに冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、コップ滅菌用の機器、洗面台などがぎっしり詰まっていた。
「狭い……ですね」
「動けなくなりますからね」
動けなくなるから、広くする必要がない。その通りかもしれないが、気分が滅入る。そして
香奈恵の骨髄を受け入れる前に、抗がん剤の投与や放射線の治療で、僕の骨髄を真っ新な状態にしなければならない。
この処置で、智也は白目が内出血するほどの嘔吐を繰り返していた。
今までと比べものにならない治療が待っている。
もし、ユイに会うなら今しかない。だが、会ったあとに体調を崩すようなことになれば、ユイを苦しめてしまう。それだけは避けたい。
「もっと僕の体が丈夫なら、よかったのに」
「その丈夫な体を取り戻すために、我々がいるんです。水樹さんはしっかり寝て、体調を整えてください」
熊谷先生が誇らしげに胸を張った。その姿は頼もしいが、
「おっと、ひとつ忘れてました」
忘れっぽいところが、僕を不安にさせる。
「先程も説明しましたが、移植前に抗がん剤の治療がはじまります。一般的によく知られている脱毛のほかに、性腺機能障害を起こす可能性があります」
「なんですか、それ?」
「不妊になるリスクが高いということです」
また新たな欠陥が増えた。
「精巣は放射線に弱くて……わずかな線量でも一時的、あるいは半永久的に無精子症になります。完全無菌室に入る前に、精子保存しておきませんか?」
卵子の保存より、男のは簡単だと大声で話す。
ちょっと禁欲して、産婦人科の個室で、あれして、これして。
熊谷先生と男ふたりで話すなら問題ない。看護師さんは「なにも聞いてませんよ~」と涼しげな顔をしているが、女性の前で具体的な説明をされると、恥ずかしさで顔が熱くなる。
「あれ? 水樹さんは子ども嫌いですか?」
「いえ、そういうわけじゃないですが……」
早くこの場から立ち去りたい。
「それでは、予約しておきます。くれぐれも今日は」
「あー、はい、わかってます。それよりも最近、少し眠れなくて」
恥ずかしい話はやめてほしいから、慌てて話題を変えたが。
「眠れないのは困ります。禁欲を意識しすぎて夢精されても困りますし、軽めの睡眠導入剤を出しておきましょう。では、また」
……こいつ、わざとだな。
とにかく顔が熱い。
こんなに恥ずかしい思いをしたのは久しぶりだった。
「熊谷先生はここの名医ですが、若い男の人をからかうのが大好きなんですよ」
看護師さんがクスリと笑った。
そういえば、ユイはよく顔を真っ赤にする。それをちょっとからかったことがある。恥ずかしいとその場にいるのが気まずくて、居心地が悪くて、逃げ出したくなるのに、悪いことをした。
「僕のせいだったのか」
ユイは突然怒り出す。その理由がわかった。
これも謝らないと……。
次に会うときが楽しみになった。しかしそれは日中だけのこと。
消灯時間がすぎて、不安を助長させる暗闇が訪れると、悪いことばかりを考える。
睡眠導入剤を飲んで寝てしまおう。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出したら、コンコンとノックの音がした。
看護師さんならノックは形だけで、僕の返事を待たずに入ってくる。じっと扉を見つめても、誰も入ってこない。
誰かいるのか? と声をかけて、ようやく扉が開いた。
「寝てた? ごめんね」
現れたの香奈恵だった。
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