第3話 喪失

 気がつくと、クリーム色の薄汚れた天井が見えた。

 消毒液の嫌な臭いと、ピッピッと、なにかの機械的な音がする。

 まったく状況がわからない。目をパチパチさせながら体を起こすと、顔や膝に痛みが走った。


「久遠寺さん、気がつきましたか? 病院の前でよかったですね。一歩間違えれば危険でしたよ」


 小柄な看護師さんがにっこり笑っている。

 左腕に点滴の針が刺さっていたので、ここでようやく理解した。

 私は壁のような坂を登り切ったあと、熱中症で倒れた。


白川しらかわさん、お嬢さん無事でしたよー」


 看護師さんが廊下に向かって大きな声を出すと、ガタンッとパイプイスが激しい音を立てた。

 その音にビクッと身をすくませる。

 白川は母の名字だ。

 熱中症で倒れたから、母のもとへ連絡がいった。そして今、そこにある扉から鬼のような形相で現れる。迷惑ばかりかけてと、殴られる。

 ふとんの端をギュッと握って、目をつぶった。


「ユイちゃん、大丈夫かい?」


 母の声ではなかった。

 安心して目を開けると、おばあちゃんがいる。

 私の手を強く握って「よかったね。無事でよかったね」と、涙を浮かべて何度も繰り返す。その姿に胸が痛んだ。

 中学生のとき「勉強が忙しいから、話しかけないで」と、生意気な口をきいた。おばあちゃんはいつも私を見守ってくれたのに、ずっと素直になれなかった。


公康きみやすさんから電話があってね。もうびっくりしたよ」

「お父さんから?」


 きっと制服を着ていたから、学校へ連絡がいったんだ。そこから保護者である父のもとへ。

 でも、父はこんな場所に来ない。

 もちろん母も……。

 だからおばあちゃんが来てくれた。


「よりによってこの病院に運ばれるだなんて、ばあちゃんの心臓が止まるかと思ったよ」

「……ごめんなさい」

「ここはユイちゃんが小さい頃に、ユイちゃんのお母さんが運ばれた病院だよ。覚えてるかい?」


 首を左右にふった。

 母が薬を大量に飲んで、病院に運ばれたのは覚えている。まさかこの病院だなんて……。


「やっぱり……、ユイちゃんは、ばあちゃんのところへ来ないかい?」


 その言葉に嬉しさを感じた。

 おばあちゃんと一緒なら、もう寂しい思いをしない。返事をしようとしたのに、


「久遠寺さん、気分はどうですか?」


 白衣を着た中年の医師が、丸々と太ったお腹を斜めにして、おばあちゃんと私の間に割って入った。


「平気です」

「点滴が終われば、ご自宅に戻っていただいても構いません。でも、熱中症には十分気を付けて、水分補給と……」


 その説明は耳に入ってこなかった。

 大人の保護なんていらない。差し伸べられた親切を拒絶することが「独り立ち」だと思っていた。だからひとり暮らしをはじめたけど、やはり誰かと一緒に暮らしたい。

 医師の姿が消えると「おばあちゃん、あのね」と、ようやく素直な気持ちがこぼれはじめる。でも――。


「あぁ、ごめんね。ユイちゃんにはお父さんがいるもんね。余計なこと言って、ごめんね」

 

 大人はいつも話を聞いてくれない。「これが正しい」と、私の声を聞く前に答えを押しつけてくる。


「実は……ユイちゃんのお母さんが再婚することになったのよ。療養中に、とても親切にしてくださる人がいてね」

「…………」

「もちろん、再婚してもユイちゃんのお母さんはお母さんだよ。おばあちゃんも、ユイちゃんのおばあちゃんのままよ。いつでも遊びにおいで」


 ふとんを握る手に力が入った。


「これから式の日取りを決めにいくのよ。ユイちゃんはもう大丈夫? ひとりで帰れる?」

「大丈夫だよ。心配しないで」


 胸の中がザラザラして気持ち悪いのに、明るい声が出る。

 笑いたくないのに、笑顔をつくるのは簡単だった。


「でも、ひとり暮らしだと大変でしょう? 困ったことはない?」


 親切に聞いてくるけど、おばあちゃんは知っている。私が「助けて」と言えないことを。

  

「友だちが遊びに来るから、楽しく過ごしてるよ。休みの日も買い物したり、カラオケにいったり」


 遊びに来るような友だちなんていない。

 現実とはまるで違う、理想を語っている。言葉と心が違いすぎて気持ち悪い。

 ウソが口からこぼれるたびに、なにかが壊れていく。

 

「お母さんに、おめでとうって伝えて」


 虐待していたくせに、新しい家庭でリスタートして幸せになるんだ……。私を置いて。

 

「ごめんね、ユイちゃん」


 謝るなら、来るなッ!

 昔からおばあちゃんは優しくて、いつも会うのが楽しみで、ひとつのよりどころだった。「一緒に暮らそう」と言ってくれたのに。すごく嬉しい言葉だったのに、最後の最後で手を離された。


 点滴が終わると、またひとりぼっち。

 考えるのをやめよう。

 看護師さんにお礼を言って、病室を出た。


「そっかぁ、ここがあの病院だったのか」


 水樹のお兄さんが入院していた病院と、母が薬を大量に飲んで運ばれた病院が同じだった。

 古い記憶を頼りに、椅子がたくさん並ぶ待合室を通り越して、狭い廊下を曲がる。すると自動販売機があった。


「まだあったんだ」


 そっと自動販売機に手を当てて、迷子になった私を助けてくれたお姉さんを思い浮かべた。

 親切にしてくれる人がいる。

 水樹の家に戻ったら、香奈恵さんがいる。私はひとりじゃない。深く考えるな。

 心に言い聞かせても、黒いものが渦巻いていた。


 水樹も香奈恵さんも他人だよ。

 血のつながった親子ですらバラバラなのに、赤の他人がいつまでも傍にいてくれると思う?


「……水樹は違う……よね」


 朗らかに笑う水樹の姿を思い出すと、もうダメだった。

 堰を切ったかのように涙があふれ、止まらない。

 迷子の子どもみたいに泣きながら歩いた。すれ違う人が驚いた顔をするけど、誰も声をかけてくれない。

 スマホを取り出して、助けを求めた。


『ちょっと、ユイ! 今、何時だと思ってるの』

「香奈恵さ……ん。水樹に……」

『は? 今、どこにいるの?』

「……水樹に会いたい」


 ただそれだけしか言えなかった。

 どうしたの? と聞かれても、体が壊れてしまいそうなほど大きな声をあげて、泣くことしかできなかった。









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