第2話 坂の上の病院へ

 朝、目が覚めると香奈恵さんがいなかった。

 昨日が賑やかすぎて寂しく感じたけど、食卓の上に置き手紙とお弁当が置いてある。


「えっと、朝食は、おかかとベーコンのおにぎり。ツナマヨ、梅、わかめとじゃこのおにぎり。好きなのを食べて、って全部食べよ♪」


 ふわふわ卵のかき玉汁に、ピーラーで薄切りにしたズッキーニのサラダもある。視覚にも味覚にもこだわった手料理は、大満足のおいしさでつい食べ過ぎてしまう。

 電車の時間を思い出して、慌てて家を出た。


「暑いなぁ……」


 そろそろ秋の気配を感じたいのに、夏のような日差しが肌をジリジリ焼いてくる。それでも朝の空気はどこか澄んでいて、体いっぱいに吸い込むと元気が出た。

 そしてこの道を水樹が歩いていた。そう考えるだけで、一緒にいるような気分になれる。ずっと笑みが止まらない。


「あっ!」


 そういえば昨日、気になる話を聞いた。

 水樹のお兄さん、智也さんが入院していた病院が、ここよりもさらに南の方角にあるらしい。

 坂の上の病院。

 いいことも、嫌なことも、すべて受け止めてくれる空。空しか見えない坂道。水樹が私にも見せたいと言っていたから、見てみたい。


 電車を待つ間に、スマホの地図で病院の場所を確認してみた。

 ここから少し離れているけど、このまま逆方向の電車にのれば、すぐにいける。

 どうせ学校はつまらない。

 一日ぐらいサボっても……。

 通学カバンをギュッと抱きしめた。するとお弁当箱のお箸が、カタカタと音をたてる。


「……サボれないな」


 香奈恵さんが作ってくれたお弁当は、学校で食べなきゃ。

 次の休みにいってみよう。そう決めたのに、暇な時間が意外にも早く訪れた。


 学園祭の準備で、午後からの授業がない。しかも、私は美咲のいるポスター班。宣伝用のポスターを作って、指定の場所に貼るだけ。下絵は完成しているから、お弁当を食べながら色をつけた。


「わっ、ユイちゃんのお弁当、おいしそう。いただきー」


 美咲が葉っぱカットされたウィンナーをひょいとつまんで、パクリと食べた。いきなりのことで驚いたけど、美咲はポスター班全員のお弁当から、次々とおかずを奪っていく。

 その食べっぷりが豪快で、ポスター班のみんなもケタケタ大口を開けて笑っていた。普段はチョークの音しか響かない教室なのに、笑い声やおかずを奪われた叫び声が飛び交っている。その中に私がいる。

 

 同じ制服を着ていても、周りのみんなはいつも明るくて、なんの支障もなく楽しそうで、自信をみなぎらせているように見えていた。 

 私だけが補習で、赤点で、うまくやっていけない人だと思っていた。

 でも、みんなでお弁当を食べている。一緒にポスターに色を塗って、たくさん笑って、……できないと思っていたことが、できている。それがとても不思議だった。


「よし、ポスター班のみなさん、よく頑張りました! 今日はこれにて解散ー」


 班長のかけ声と共に、みんなでハイタッチをする。

 パンッと弾ける音が心地よかった。


「ユイちゃん、またねー」


 美咲はトレーニングウェアに着替えて、部活へ。私はスマホの地図を眺めていた。


「急行で……六つ先の駅か」


 太陽の光をたっぷり浴びたアスファルトが、むわっとした暑さを放出している。早く帰って涼みたい気持ちもあるけど、坂の上の病院へいってみよう。

 ワクワクした気持ちを抱えて、電車に飛びのった。 


 電車の中は涼しくて、ウトウトと眠りそうになった頃、目的地に到着した。

 駅前のバスターミナルには、二、三台のバスがとまっている。病院いきのバスも探せばありそう。でも、水樹は自転車で通っていたから、歩いてみることにした。

 

 お気に入りの音楽を聴きながら、お散歩気分で歩く。ところが、まだまだ暑い午後の日差しの中を、歩いているのは私だけ。

 交差点を曲がって、さらに緩やかなカーブを曲がると足がピタリと止まる。


「……これが坂?」


 目を丸くして、思いっきり見上げた。

 涼しげな街路樹がずらりと並んで、歩道はおしゃれな石畳。でも問題なのは、壁にしか見えない坂。

 坂というより、大きく立ちはだかる壁。

 壁の一番高いところに、かろうじて青い空が見えている。


「え、この壁を自転車で?」


 とても信じられなかった。

 歩いても、歩いても頂上が見えてこない。

 汗が滝のように流れて、すぐに音楽を聴く余裕も奪われた。

 やっぱりバスを利用すればよかったと、激しく後悔した。それでも引き返せない。長距離走者のような息づかいで、立ち止まってはフラフラと亀のようにゆっくりと歩む。お茶もあっという間に飲み干してしまった。

 

 空のペットボトルにため息をぶつけて周囲を見回したけど、自動販売機なんてものはない。街路樹の葉と葉の隙間からふり注ぐ、キラキラとした輝きも容赦なく、私の体力を奪う。

 来る時期を間違えた。

 息苦しくて、のどがカラカラしすぎて痛い。


 それでも少しずつ大きく広がる空は、あの日みた空と同じ。美しいガラスのように、青く輝いている。

 目の前の大きな空は、もう一度見たかった青い空。

 自然と笑みがこぼれた。


「このまま……空に……のぼれそう……」


 傍に水樹がいなくても、この色があれば頑張れる。

 あと少し、あと少し。と、呪文のように唱えながら空に向かって歩く。

 いつの間にか流れる汗が消えて、近づいたはずの空がフッと遠のくと、コンクリートの大きな塊のような病院が見えた。

 そこでやっと、壁のような坂のてっぺんにたどり着いたことに気づく。

 青い空には届かなくても、登り切った達成感で胸がいっぱい。


 四月になって水樹に会えたとき、今日の頑張りを話して褒めてもらおう。

 そんなことを考えていると、突然、ふわふわと雲の上を歩いているような、乗り物にゆられているような、変な感覚に襲われた。

 体に異常を感じても、声すら出ない。足もとから力が抜けていき、すべての音がすっと遠のいた。同時に、目に見えるすべての景色が真っ白になった。

 










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