第3話 大丈夫だから

 病院に到着すると、言葉より先に香奈恵さんが私を抱きしめた。


「大丈夫だから、きっと大丈夫だから」

「なにがあったんですか?」

「歩きながら説明する」


 急ぎ足で一直線に進んでいくから、慌ててあとを追いかけた。


「詳しい説明はまだ受けてないけど、呼吸困難になったみたい。酸素マスクをつけてもうまく呼吸ができないようで、暴れたって」

「水樹が?」

「気力も体力も落ちてるのに、ありったけの力で酸素マスクをぶん投げたみたい。たぶん、なにをやっても苦しくて、息ができないから、もうやめてくれって……ことだと思う」

「でも、治療をやめたら」

「やめるわけないでしょう。ここは病院なんだから。でも、血圧が限界まで下がって、いつ終わりが来てもおかしくないから、親とユイを呼んだ」

「さっき、大丈夫って」


 思わず足が止まった。

 長い廊下の先にある実情を知るのが怖い。


「ユイ、止まらないで。モルヒネを投与してるから会話はできないけど、カナ兄ぃに会えるのは今しかないの」


 私は首を横にふっていた。


「下がりきった血圧も上昇して、安定してる。声は届いてるから、お願いッ!」


 強引に腕を引っ張られて、集中治療室へ。

 消毒液の嫌な匂いと、ピッピッピッとなり続ける機械音に顔をしかめた。そして水樹は、信じられない数の点滴と医療装置をつけられて眠っている。


「水樹……」


 怖かった。

 酷く痩せて、血の気を失った顔は、真っ白い紙のよう。


「……ユイだよ」


 話しかけても答えてくれない。

 いつだって朗らかな笑顔を見せてくれたのに、形のいい目が開かない。


「お願いだから、目を開けて。ひとりにしないで」


 手を握ったけど、冷たい。


「香奈恵さん、これで生きているって言えるの? 本当に大丈夫なの?」

「今は回復を信じるしかない。でも、心肺機能が限界に達しているから、このままだと数日で」

「嫌だ」

「あたしだって嫌よ。だから、心肺機能が回復するまで人工呼吸器をつけて、回復を待つ方法もあるの」

「だったら、それを早くッ。水樹がいなくなったら――」


 生きていけない。

 

「……そっか、だからあのとき水樹は」


 ――僕がいなくなっても、絶対にこの赤い線から外に出るな。


 この言葉は「僕が死んでも、命を捨てるな」という意味だった。


「ずるいよ、四月に会う約束は? 桜を見るって言ったよね。私には約束を破るなと言って、自分は……」


 涙で前が見えなくなった。


「香奈恵さん、水樹を助けて。もう治療はしたくないって言っても、水樹がいなくなるのは嫌だ。人工呼吸器でも、なんでもいいから」

「回復しなかったら?」

「えっ?」

「人工呼吸器をつけても、回復する保証はどこにもないの。もし回復しなかったら、カナ兄ぃはずっとこのまま。植物状態になってしまう」

「そんな……」

「カナ兄ぃはすでに治療を拒んでる。苦痛から解放してあげた方がいいのか、植物状態になるリスクを覚悟して、苦しみを与え続けた方がいいのか。あたしひとりでは決められない。親と相談して」


 底知れぬ絶望感に襲われた。


「一分一秒を争う状態でしょう。早く助けてあげて。水樹が死んじゃう。水樹を殺さないでッ!」


 冷たい手を強く握りしめて、酷い言葉を口にしていた。

 誰も死を望んでいない。助けたいと願っている。わかっているけど、冷静になれない。

 香奈恵さんに八つ当たりをして、最低だ。


「…………イ」


 激しく息を吸い込む音と共に、かすかな声が聞こえた。


「水樹?」


 冷たい手の指先もかすかに動いて、キュッと握り返している。


「カナ兄ぃ、気がついたの? あたしは……、あたしはどうすればいい?」


 水樹が苦しそうに顔をゆがめて唇を動かしているのに、聞こえない。

 香奈恵さんが私を押しのけて、水樹の手を奪った。


「結果はどうなるかわからない。それでもいいなら、手を握り返して」


 水樹の手は動かなかった。でも、「サク……ラ」と。


「ユイと一緒に桜が見たいの? それとも」


 香奈恵さんは下唇を噛んで、言いかけた言葉を止めた。

 傷つけないように、「一緒に桜を見ない」という選択肢を口にできないでいる。

 私が言わなきゃ。そう思っても足が震えて声が出ない。石のように黙っていたら、 


「奏人ッ!」


 甲高い、悲鳴に近い声が集中治療室に響いた。

 上品な顔立ちの夫婦が、息を切らせている。一目で水樹の両親だとわかった。


「どうしてこんなことに……」


 悲愴な面持ちで嘆いてから、爆発したかのように怒鳴りだした。


「あなたは医者でしょう。どうして奏人がこんなになるまで、気がつかなかったのよッ」

「おまえだって家を出たくせに。母親が傍にいないから、奏人が」


 なじり合うだけの言い争いがはじまった。


「いい加減にしてッ! こんなところで喧嘩をしないでよ。全部、カナ兄ぃには聞こえてるのよ。親の喧嘩がどれだけ辛いのか、わからないの?」


 香奈恵さんまで語気を荒げると、水樹の横にある機械からピーッという警報音が鳴り響いた。すると看護師さんが慌ただしくやってきて、脈を測る。


「水樹さん、聞こえますかー? ゆっくり息をしてください」


 反応がない。


「奏人、しっかりして!」

「カナ兄ぃ」

「奏人ッ」


 この場にいり人たちがみんな声を出しているのに、私はじりじりと後ずさりをしていた。


「おっと」


 頭に白いものが混じる、日焼けした医師とぶつかった。


「ご家族の方ですか?」

「いえ……違います」

「すみませんが、ここからはご家族だけでお願いします……って、もしかして久遠寺ユイさん? 水樹さんの主治医をしている、熊谷です」


 驚いて顔をあげると


「水樹さんからよく話をうかがってますよ。ここからは、我々に任せてください」


 熊谷先生が自信に満ちた笑みを浮かべた。














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