第5話 決めた
「今の握手で許したの? まったく理解できないけど、あれでいいの?」
「よくないです」
「どうして言い返さないの? 被害者なのに頭を下げて、バカみたい」
「どうせ何を言っても、平塚は陽菜の味方だから。落ちこぼれは落ちこぼれらしく、おとなしくしてます」
口では不満げに話している。だけど、カナ兄ぃからの本を嬉しそうに抱えて、ご機嫌だ。腹が立つ。
「やっぱりカナ兄ぃに、ふさわしくない」
「……それも自覚してます。ずっといらない子だったから」
「誰かにいらないって言われたの?」
「お母さん」
くそガキの言葉が小さな針になって、胸に刺さった。
トモ兄ぃを救えなかったあたしも「いらない子」
母さんの愛情はトモ兄ぃの命と一緒に、この世から消えてしまった。でも、あたしにはカナ兄ぃがいて、父さんもいてくれた。
さっき、ユイの親は離婚したとか言っていた。
「なるほどね、全部わかった気がする。カナ兄ぃがいつも心配してる訳が」
「心配……今もしてくれてるんだ。なんだか信じられなくて」
「カナ兄ぃを疑うの?」
「だって水樹は大人だし、かっこいいし、モテそうだし。……好きって言われても、あれは夢だったんじゃないかなって……」
「はああああああ? あんた、そんなこと言われたの!?」
両手でユイの胸ぐらをつかみ上げていた。
信じられない。
恋愛感情よりも、保護者が子どもを見守っているような心境だと考えていた。
頬をリンゴみたいに真っ赤にして……ムカつく。
「水樹は、……元気にしてますか?」
「うっ」
言葉に詰まって、手が離れた。
「元気ならそれでいいけど。二学期がはじまったのに水樹がいなくて、ちょっと寂しいかなって」
「あ、そう。あたしは毎日カナ兄ぃに会ってるけど、寂しいなら忘れれば? もっと年の近い男を探しなよ」
「無茶を言わないでください」
「あんたまだ高校生だよ。うまくいくわけないでしょう」
「……香奈恵さんに言われなくてもわかってます。前に、目の前で水樹にフラれる人を見たんです。いずれ私も同じようにフラれるだろうなって。でもフラれたからって、すぐに「次の人!」ってならないでしょう。簡単に切り替えられないなら、想い続けてもいいかなって。誰にも迷惑かけないし」
「へぇー、意外と一途なんだ」
「私の声を聞いてくれたのは、水樹だけだから」
カナ兄ぃからの本をギュッと抱きしめる、その手が辛そう。
「今は水樹に会えなくなっちゃったけど、たくさん守ってもらったし、まだ気にかけてもらえてるなら、嬉しいかな」
涙がこぼれるのを必死に我慢している様子が痛々しい。
「ねぇ、高校生のくせにひとり暮らしなんだって?」
「……えぇ、まぁ」
あたしの心は揺れていた。
カナ兄ぃが病気を克服して元気になれば、また元通りの生活がはじまる。
でも、元気になれなかったら?
ユイが薄氷の上を歩いているようで、ゾッとする。
きつく口止めされているけど、万が一の心構えはあった方がいい。
「決めた。学校が終わったらココに連絡ちょうだい。あんたの部屋を見せてよ」
「ええぇ!?」
連絡先を乱雑に書き留めたメモを押し付けた。
「拒否権はないからね。じゃあ」
ポカンと口を開けたままのユイをあとにした。
「顔は普通。プロポーションは貧乳で子ども。ずば抜けていい所が、まったく見当たらない。歳も離れているのに」
カナ兄ぃから告白したの?
信じられない。
最悪の事態が訪れて、どこかでカナ兄ぃのことを知ったら、ユイは壊れるよ。
残された者の悲しみや辛さは一番よく知っているくせに、それを高校生に押しつける気なの?
そんなこと、カナ兄ぃらしくない。ふたりはもっと話し合うべきだ。
「あっ……」
病は急激に悪くなった。説明する時間も、未来を語る時間も、カナ兄ぃには残されていなかった。
いつも自分のことより周りを気遣うのに、今回だけは自分の気持ちを優先させたってこと?
少し会えないだけで、「寂しいよ」って泣き出しそうな弱虫には背負えない。ユイは脆すぎる。今日、見ただけでもわかるのに、どうして……。
はじめてカナ兄ぃがなにを考えているのか、わからなくなった。
「くっそう! 腹が立つ。なんであたしが心配をしなきゃいけないのよッ!」
ブツブツ言いながら外へ出ると、セミの鳴き声が一層騒がしい。
カナ兄ぃはのんきなところがあるから、どうにかなるって軽く考えていそうな気もしてくる。
「はあー、今日は本当に最悪な日だ」
空を仰ぐと四階建ての校舎の上に、目が痛くなるほど輝いた白い雲と、青い空が見えた。
一度だけ、ここの屋上へ行ったことがある。
透き通る、青一色の空に心が震えた。それなのに、綺麗すぎる空の下でカナ兄ぃの横顔は孤独だった。
何年たっても、トモ兄ぃを励まし続けたことを後悔して、自分を責め続けている。
そんなカナ兄ぃが「誰かの力になりたい」と言ったとき、あたしもすごく喜んだ。
教師の道を選んだときも応援した。
はじめての生徒が暴走して、めちゃくちゃになったけど、非常勤講師として再出発してくれた。
これでもう安心だと思ったのに、屋上から見える空が綺麗すぎて怖かった。誰かを救う前に、カナ兄ぃの心がポキッと折れて、青い空へと消えてしまいそうで……。
赤い線はまだ屋上に残っているのかな?
空がカナ兄ぃを連れて行かないように、すがる思いで引いた赤い線は、この世とあの世の境界線。
まさか再び境界線に立たされる日がくるなんて、思ってもみなかった。
手でひさしをつくって、澄み切った青い空を睨む。
この先なにが起ころうと、あたしは後悔しない道を選ぶ。
カナ兄ぃに叱られても、嫌われても、……看病を拒否するぐらい怒ったら……、絶縁されたら困るけど……決めた。
ユイにすべてを話そう。
大切な人を失って傷つく姿を、あたしはもう見たくない。
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