水樹香奈恵

第1話 あたしの名前

 カナ兄ぃの転院先は、安心できる場所だった。

 前の病院ではできなかった、染色体検査や遺伝子検査などを行って、治療への道筋も見えてきた。

 ただひとつ問題なのは、医療制度。

 保険の都合で、数週間入院したらいったん退院をする。そしてすぐにまた入院。ずっと病院にいてくれた方が安心なのに。帰宅するとすぐ無理をするからハラハラする。


 この前もそう。

 退院と言っても、一時帰宅。絶対安静、無理はしない。口酸っぱく言ったのに、カナ兄ぃは学校へ行ってしまった。

 学校をやめる挨拶も、荷物の回収も、全部あたしに任せてほしかった。もう心配で心配で授業にも身が入らない。

 そして予想通り、


『香奈恵、ごめん。血が止まらない』


 ヘラヘラと笑って報告してきた。

 カナ兄ぃは酸素を運ぶ赤血球だけでなく、外敵から身を守る白血球も、止血の働きをする血小板も減少している。血が止まらないと言うことは、病状が悪くなった証拠。

 あたしはハンマーで頭を殴られた気分だったのに、カナ兄ぃは平然としていた。


 学校で、なにかあったな。

 女の勘がピーンと働く。

 厳しく問い詰めてやろうと思っても、カナ兄ぃの血小板は計測不可能なぐらい減っていた。これは大変だと、血小板の輸血が決まる。

 ゆっくり会話をする暇がない。


 そして輸血には危険がつきまとう。

 もちろん、ほとんどの輸血が問題なく、安全に行われている。

 でも初回の輸血は怖い。どのようなアレルギーが出るのか、出ないのか。輸血してみないとわからない。

 もしアレルギー反応が出たら、それを抑える点滴をしてくれる。だから大丈夫と思っても、血小板製剤は、ほかの輸血製剤と比べて副作用が出やすい。

 

 アレルギーを抑える点滴をしてから、輸血の流れだといいのに、はじめての輸血ではそれができない。よほどの理由があれば別だけど……。

 生まれたときから医療に関わって、医学部に進んで、中途半端な知識がたくさんあるから心配だらけ。

 カナ兄ぃはいつも「大丈夫、心配のしすぎ」って笑うけど、あたしの勘をなめるなよ。

 

 輸血がはじまって三十分後、気道が塞がるアレルギーが出た。

 命に関わる、最悪なアレルギーだ。

 あたしは呼吸しやすい姿勢と意識を確認して、声をかけ続けた。こんな状況でもカナ兄ぃは「大丈夫」と言いたそうにしている。

 こっちは焦りと恐怖で歯がガチガチかみ合って、手も震えているのに。

 看護師さんが来るまでの時間が、本当に怖かった。


 それでも本格的な治療は、はじまったばかり。命を脅かす危険はこの先に待っている。

 骨髄移植だ。

 カナ兄ぃの体は大切な血球を作ることができない。正常な骨髄細胞を移し植える必要がある。

 あたしが骨髄細胞を提供する、血縁者間ドナーになれるのか。血を抜かれたり、なにかを入れられたり。もう十回ぐらい注射をしている。

 たくさんの検査を受けてドナーになれそうだけど、精神的な不安に耐えられないときがある。

 あのくそガキは?


 久遠寺ユイとかいう女。

 再入院の話も、カナ兄ぃが難病を患っていることも話していない。

 ただの生徒だから?

 いや、きっと違う。病で苦しむ姿を見せたくない、と強がっているだけ。


 前の病院で転院が決まり、無理して笑っていたカナ兄ぃ。

 ほろ苦いコーヒーの香りが漂う店の前で、あのくそガキを発見したときの顔。

 あたしには絶対に見せない表情だった。

 許せない。

 今までカナ兄ぃに近づく女はすべて排除してきた。


 幼くみえないように早くから化粧を覚えて、週末はカナ兄ぃと買い物したり映画を観たり、とにかく外へ連れ出す。

 するとカナ兄ぃには美人の彼女がいる、というウワサが勝手に流れてくれた。

 料理が得意だという彼女を連れてくれば、それはあたしへの挑戦状。

 プロ級の手料理でお出迎えをしてあげたら、泣き出したわ。ざまーみろッ。


 今度の相手は高校生?

 バカじゃないの。あたしは認めないよ。

 トモ兄ぃと約束したもん。


『奏人は優しすぎるから、香奈恵が守ってやるんだぞ』

『任せて!』

『香奈恵も幸せにな』


 それが最期の言葉。

 あたしは幼くて、無菌室には入れない。だからトモ兄ぃの壮絶な闘病生活を知らないけど、あの日のトモ兄ぃはとても穏やかな口調で、柔らかく優しい笑顔だった。

 最期になるなんて、思いもしなかった。

 だからあたしがカナ兄ぃを守って、幸せになる。

 トモ兄ぃがいない今、カナ兄ぃを守れるのはあたししかいない。


「それでは水樹香奈恵さん、弁護士の先生が来ましたので最終同意書をお渡ししますね」

「はい」


 病院の相談室で、骨髄移植についての説明を聞いていた。

 どのような検査が必要で、どのような副作用があるのか。実際にする医療行為のことや、入院期間のこと。過去に死亡例があることまで。


 カナ兄ぃの治療には骨髄移植が不可欠だと、医師に言われた。それから数日、検査と骨髄移植の話ばかり。三度目の説明を聞いて、やっと最終同意書を受け取った。

 これにサインをすれば、骨髄を提供するドナーになれる。

 

 さっさとサインしようとしたのに、死亡や障がいが残るリスクについて、あたしの意思を尊重して医師が説明をしているか、弁護士が口を挟んで確認してくる。

 ドナーあたしには手術直前までキャンセルを言う権利がある。やめてもいいと言ってくる。

 そんなことをしたら、カナ兄ぃが死んでしまう。バカじゃないのと思いながら、適当に受け答えをした。


 二時間近くリスクの説明を受けて、それでも腹をくくって同意するのか。

 弁護士さん立ち会いのもと、あたしは無理強いされていない。自らの強い意志で最終同意書にサインします! ということをアピールするための儀式に参加していた。

 くだらない。

 最悪、死んでも文句を言わないでね。と念を押されているようで、あまりいい気がしない。


 そして、あたしの名前は水樹香奈恵。

 最終同意書にサインした名前を見て、嫌でも思い出す。

 骨髄移植しか助かる道がなかった、トモ兄ぃ。兄弟ではドナー適合者になる可能性が高いのに、カナ兄ぃはドナーになれなかった。

 だからあたしが生まれた。


 願いを叶え! そんなつもりで付けられた名前。

 それなのに、家族の願いを叶えられなかった。

 カナ兄ぃは家族間のドナーをずっと嫌がっていた。その理由はわかるよ。

 もし、あたしがドナーになってカナ兄ぃを救えなかったら……。

 考えただけでも背筋が凍る。








 

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