第2話 カナ兄ぃの頼み
カナ兄ぃは、外界から隔離された
無菌室の患者は、孤立感や拘束感を抱きやすい。ストレスを感じやすいので、精神的なケアを重視して看護をするように言われた。それなのにカナ兄ぃは、あたしを気遣ってばかりだ。
洞察力に
時々イラッときて喧嘩になるけど、もめごとは極力避けたいみたい。
優しい性格なのは昔からでも、病人なんだからわがままのひとつやふたつ、言えばいいのに。
「入るよー」
空中の雑菌や病原菌を極力少なくした無菌室には、特別な空調設備があってクリーンな空気を循環させている。空気の流れを乱さないように、静かに入るとカナ兄ぃは眠っていた。
このまま休ませたいけど、最終同意書にサインしたことを伝えなくては。
「カナ兄ぃ、起きて」
ゆっくりと目が開いた。この瞬間はホッとする。
「……香奈恵?」
「そうだよ。さっき、最終同意書にサインしてきた。これであたしはカナ兄ぃのドナーだよ」
「骨髄移植より、さい帯血移植がよかった……」
「はあ? ふざけないで! さい帯血からは採取できる量が少ないの。貴重な物なのよ。カナ兄ぃには、HLA型が一致したあたしがいるのに」
「それじゃ、免疫抑制療法で頑張る」
「血球減少の程度が軽かったら、それも選択肢のひとつだけど」
免疫抑制療法を試しても、血球値が上がってこない。これ以上続けても辛いだけだった。
「とにかく、兄弟が四人いてドナーになれるのはひとり、いるかどうか。カナ兄ぃの兄弟はあたしだけ。そのたったひとりの兄弟でHLA型が一致するのは奇跡なんだよ。先生たちもびっくりするぐらい、白血球の型が近いって」
赤血球の型にはA型、B型、O型、AB型があって、白血球にもHLA型と呼ばれる型がある。それが一致して、はじめて骨髄移植の道が開ける。その大当たりを引いたのに……。
「僕の白血球が、智也と同じ型ならよかったのに」
「また昔の話?」
「智也の気持ちがわかりそうな気がして」
「あーもう、辛気くさい顔しないで。はい、はい、そうですね。HLA型が一致してればよかったね。そうしたらトモ兄ぃは死ななかった。それなのに自分は……なんてバカなこと考えてないよね?」
カナ兄ぃは気まずそうに顔を伏せた。
「それとも、こうかしら? HLA型が完全一致でも、あたしの骨髄がカナ兄ぃを殺すかもしれない。重い負担や十字架を背負わせるかもしれない。自分のことより、あたしへのリスクを恐れているなら本気で怒るよ」
別に……と口ごもったけど、カナ兄ぃはあたしの地雷を踏んだ。
「カナ兄ぃとトモ兄ぃのHLA型が一致しないで、お父さんもお母さんも絶望しただろうなぁ。藁にもすがる気持ちであたしを産んで、さらにどん底に突き落とされた。ふたりの白血球が同じ型なら、あたしはこの世にいませんよーだ。この気持ちわかる?」
「ああ、もう悪かった。その話はやめよう」
「やめるわけないでしょう。喧嘩を売ってきたのはそっちよ。売られた喧嘩は全部買って、たたきつけてあげる」
病人だろうと、なんだろうと手加減しない。
カナ兄ぃには生きてほしい。
「助かる方法と手段があるのに、それを手放すのはバカ。大バカよ。移植した結果、なにが起こってもあたしは後悔しない。カナ兄ぃのお葬式で「やれることはすべてやった」って胸を張ってあげる」
キツい冗談でも、本気をぶつけないと誤った選択をしてしまう。
「香奈恵は強いな」
「カナ兄ぃが軟弱なだけよ」
トモ兄ぃが病気にならなかったら、あたしは生まれてこなかった。
「家族の願いを叶えなかったあたしが、やっと願いを叶えるチャンスがきたのに、それを手放すわけないでしょう。カナ兄ぃは黙って、あたしの自己満足に付き合ってくれればいいの。難しく考えないで」
「骨髄を採取するのに三泊四日の入院で、全身麻酔だろ? 死亡するリスクだって……」
「その話はさっき散々してきました。二時間近くリスクの話ばっかりで、みっちり脅されてきたわよ」
ドナーにはリスクがつきまとうけど、それはまれなことだと思っている。死にそうなのはカナ兄ぃなのに、またあたしの心配をしている。
「とにかく、あたしはなんでもするよ。カナ兄ぃも覚悟を決めて、あたしをこき使うぐらいになってもらわないと」
「香奈恵を? あとが怖そうだな」
やっと笑ってくれた。
でもすぐにカナ兄ぃの笑みが怪しく光る。
「……それじゃひとつ、頼んでいいか?」
「なになに? おいしいものが食べたい? 退屈なら一緒にゲームをする?」
「いや、そうじゃなくて――」
静かな声で頼み事を口にした。
カナ兄ぃのためなら、どんなことでもする。
その覚悟があったけど……。
「その願いは却下!」
「さっき、こき使えって言ったくせに」
「言ったけど、絶対に嫌ッ。だいたい、顔も覚えてないもん」
ぷくっと頬をふくらませてそっぽを向いた。
ここに入院してからはじめての頼み事が、あのくそガキに本を渡せだって?
「僕の机に置いてある本なんだ。袋に入ったままだから、すぐわかると思う」
「あたしは忙しいの!」
直近の言葉もひっくり返す。
あきれた顔つきをされても、あのくそガキに会うくらいなら、大学に行って勉強する。
「英語の平塚先生を覚えてるか? 去年、旅行に行ったとき、会ってるだろ。その先生でもいいから渡してきてほしい。職員室の場所はわかるな」
うーんと唸って返事を渋る。
あのくそガキがいる学校は母校だから、職員室ぐらいわかる。そこに本を置くぐらいなら平気だけど、ばったり出会ったら……。
「わかった、もういい。頼まない。嫌なら僕がユイに渡してくる」
「ダメ、ダメ。絶対にダメ!」
「どうせまた一時帰宅があるだろ。そのときに渡すよ」
背中を向けられた。
あたしが本を届けないと、カナ兄ぃが無理をする。
一時帰宅のときは車で移動。外出は禁止。他人に会うなんてもってのほか。
「わかりました! 平塚先生に本を預ければいいのね。明日、行ってきます」
しおらしくあたしの心配をしておきながら、カナ兄ぃはずるい!
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