第2話 好きだから
両手を腰に当てて、気落ちしたようなため息をつく。それから再び息を吸って、「まいりました、降参です」と言いたげな表情で、信じられないことを口にした。
「僕はこの学校を辞める。というか、もう辞めてきた」
え? と聞き返しても、水樹の顔が「ごめん」と言っている。
「……どうして?」
そっとふれるように尋ねた。
「僕は今、人生の岐路に立ってて……。親父は医者で、母親は新薬の開発に命をかけている。妹の香奈恵も医学部だ」
「先生を辞めて、お医者さんになるの?」
「そういう訳じゃないけど、しばらくは病院かな」
水樹は大きく背伸びをした。
私はその広い背中を眺めることしかできない。
今日でお別れ。だから職員室にはたくさんの人が集まって……。また私はなにも知らなかった。
水樹に会える嬉しさだけを抱えてここに来たのが、バカみたいだ。
涙ですべてがにじむけど、青すぎる空を仰ぐ水樹は気づいてくれない。
「真っ暗な空に浮かぶ秋の名月を眺めて、冬はからりとした青空の下で、まぶしく光る雪景色を歩いて、春には空に咲く桜を……。ユイと一緒に見たかったなぁ」
「……見ればいいじゃん」
鼻をすすって、手の甲で乱暴に涙を拭った。
「私はどこにも行かない。この学校にいる。学校を辞めても、空ぐらい見れるよ。私と一緒に見たいなら、誘ってくれれば……。違う、私が誘う。水樹と一緒に夏祭りに行きたい。花火が見たい。満月を眺めて、雪遊びもしたい。空に咲く桜も見てみたい」
手をギュッと強く握りしめて、喉が痛くなるほどの大声を水樹にぶつけたのに、背中を向けたままだ。
私はこんなときでも、水樹を困らせている。
最悪な女だとわかっていても、言葉が止まらなかった。
「そっか。学校を辞めたら……、私は生徒じゃない。水樹には関係ない人になるんだ」
「そうじゃない」
ようやく水樹が振り返ってくれた。
「だってそうでしょう。私が生徒だから、いじめを見過ごさなかった。留年しそうなほどバカだから、手を貸してくれた。お弁当だって、ひとりでパンをかじっていたから、憐れんだ? 全部、知ってる。わかってる。それでも……水樹と……」
離れたくない。
ただの生徒でいいから、傍にいてほしい。
大粒の涙がひとつこぼれたら、次から次へとあふれてもうダメだった。
「悪かった。僕の言い方が悪かったから、泣かないでくれ」
水樹は泣きじゃくる私の背中を、あやすように優しくさすってくれた。
「確かに最初は同情していたのかもしれない。でも、今は違う。ユイは特別なんだ」
「……どういうこと?」
「そう聞かれると……、んー……まいったなぁ」
少しはにかみながら口元に手を当てて、深く考え込んでいる。でも、口元に当てた手を離すと、水樹の目が瞬く。
じっと手のひらを見つめたまま、固まっている。
「水樹ッ、血が。口から」
「えっ、あぁ……、うん」
水樹らしくない、空返事が返ってきた。手のひらにも血がついている。
「わわわ、大変」
ポケットからハンカチを取り出して、血を拭き取った。
唇の端から流れる血も拭き取ろうとしたら、手首をつかまれた。
びっくりして思わず手を引こうとしたけど、水樹は片手で軽々と私を引き寄せる。
柔らかい風に揺れる水樹の前髪と、私の前髪がふわりと触れた。
顔が近すぎて、心臓がドドドドッとただ事ではないリズムで大暴れ。
頭の中がパニックになった瞬間、ゴンッと鈍い音が。
「いったーいッ!」
おでこに頭突きされた。
「意地悪なことばっかり言うから、お仕置きだ」
水樹はあらっぽく血を拭うと、いたずらが成功した少年のように笑っている。
そして――。
「同情も憐れみもない。僕はユイが好きだから、一緒に弁当を食べて、勉強して。それが答え。それよりも見ろ、あっちの雲は白くてふわふわだ。肉まんみたいだろ?」
「は? 夏の雲といえば、綿菓子だよ。この暑い日に肉まんって……ないわー」
まだヒリヒリするおでこをさすりながら、笑った。
「ねえ、水樹。また会える?」
「そうだなぁ、順調にいけば四月……かなぁ。できる範囲で頑張るから、ひとつ、約束してくれ」
水樹は消えかかった赤い線を指さした。
前に、この赤い線から外に出ると、下から見える。屋上に人がいるのがバレてしまう、と言っていた。
「僕がいなくなっても、絶対にこの赤い線から外に出るな」
そう言って、小指を差し出した。
「あれから一度も出てないよ。指切りなんかしなくても、線より外には出ないよ」
「本当か?」
「うん。絶対に出ません」
「よかった。これで安心だ」
肩の荷が下りたようにホッとするから、私は確信した。
ここから飛び降りて死のうとしたことを、水樹は知っている。だから手を差し伸べてくれた。
それは先生と生徒だから?
――ユイが好きだから。
さっき確かにそう言ってくれた。
大人はみんなずるくて気まぐれだけど、水樹の言葉は信じよう。
うまそうな雲みっけ。と、のんきに空を眺めている水樹は、誰よりも私の近くにいてくれた。
ジリジリと焼けるような胸の痛みと、モヤモヤした暗い気持ちが晴れ渡ると、心が弾む。
輝く夏空のように、爽やかで大胆になれる。
「えいッ!」
私は水樹に抱きついた。
すべてのぬくもりを全身で感じながら、しばらく会えなくなる寂しさを封じる。
「大丈夫だよ、私は死なない。約束する。四月になったら、お花見に行こうね」
相変わらず返事がない。でも、頭をそっとなでてくれたから、それが返事だと勘違いした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます