私と水樹の約束

第1話 水樹に会えたのに

 水樹が退院する。

 これはとても嬉しい。でも、補習のあとのお楽しみが消えた。

 夏休みの間に学校へ行くと言っていたけど、それがいつなのか。肝心なことを聞き忘れた私はバカだ。

 

「久遠寺、次はこのテキストだ」


 広い教室に、平塚とふたりっきり。水樹に会えるなら補習授業も真面目に受けて、さっさと終わらせることができた。水樹に会えないなら、英語まみれのこの時間はただの苦行でしかない。

 ダラダラと問題を解いて、確認テスト。

 確認テストで点数が取れないと、再びテキストとにらめっこ。それの繰り返しで飽きてきた。

 しかも平塚が納得するまで、英語、英語、英語。

 日本語が恋しい。国語の教科書が読みたい。

 机に突っ伏していると、いきなり教室の扉がガラリと開いた。


「平塚先生、水樹先生が来ましたよー」


 知らない先生がノックもせずにやってきた。


「わかりました。久遠寺、テキストができたら職員室に持ってきてくれ」


 パタパタと走り去る後ろ姿を、ポカンと見送った。


「今、水樹……って」


 夏休み中に一度学校へ行くと言っていたけど、その日が今日だったとは。

 もたもたしていたら、水樹が帰ってしまう。

 制服のポケットからスマホを取り出して、アプリを起動。難しい長文も一発で日本語変換。その逆も可能。穴埋め問題も教えてくれる。

 厳しい視線を投げつけてくる平塚がいなければ、テキストも楽勝だった。


「いざ、職員室へ!」 


 テキストを突き上げて、気合いを入れた。

 水樹に会える。嬉しくて、嬉しくて仕方がない。

 セミの鳴き声が響く廊下を走って、職員室をのぞき込んだ。


「あれ?」


 普段、職員室にはいない購買のおばちゃんや、用務員のおじさんが水樹と話をしている。保健の先生もいる。

 机や棚がぎっしりと並ぶ職員室にたくさんの人が集まって、水樹に近づけない。


「平塚ぁー。テキスト、全部できたよー」


 私はここにいる。

 それを水樹に伝えたくて、わざと大きな声を出した。


「久遠寺、テキストはそこに置いて、今日は帰っていいぞ」

「え、もう帰っていいの?」


 答え合わせも、小テストもしていない。呼び捨てにしたことも怒っていない。ただ、「さっさと帰れ」と言いたそうな目をしている。

 

「はい、はい、帰ります。さようなら」


 と言いつつ、つま先立ちになって両手を大きく振った。

 そこでようやく、たくさんの教職員に囲まれていた水樹が、私に気づいてくれた。

 形のいい目を優しくして、こっちに来てくれそうだったのに、平塚が水樹に話しかけて邪魔をする。


「もう! ムカつくな」


 もう一度つま先立ちをすると、水樹がスッと人差し指を天井に向けた。

 なんだろう? と思って天井を見上げた。

 所々になぞのシミがある、汚い天井に私は首を傾げた。でも水樹は、口角をしっかり上げてニッと笑っている。


「あっ!」


 短い声を上げて、職員室を出た。

 暑苦しい廊下には、吹奏楽部の音が響いている。どこかで聞いたことのある、ディズニーの曲だ。

 鼻歌交じりで階段をのぼっていく。

 途中で誰もいないか確認して、【関係者以外立ち入り禁止】の立て札を越えた。

 久しぶりに屋上に出た。

 空が近くてまぶしい。

 ちっぽけな私を吸い込んでしまいそうなほど広くて、吸い込まれたらすべてが青になってしまいそうな程、濃い。


 私はここから飛び降りて死のうとした。

 でも水樹が「ようこそ、僕の学び舎へ」と言って、両手を広げてくれた。それから訳のわからない話をいっぱいして。

 あの日のことを思い出すと、心が温かい。


 先生と生徒。ただそれだけの関係だけど、好きになってしまった。

 空回りして、みっともない姿をさらしても、目を閉じて最初に浮かぶのは水樹。そして聞こえる。熱い胸の鼓動が。

 叶わないのは知ってるけど。


「……辛いなぁ」

「どうした? 悩みでもあるのか?」

「ひぁえ?」


 真後ろに水樹が立っていた。


「驚かせるつもりはなかったが、ごめん。びっくりさせたな」

「心臓を吐きそうになった」

「そんなに驚くなよ。さっき屋上にって指で合図したの、わかってくれた?」

「……なんとなく。だからここにいるでしょう」


 水樹に会えて嬉しいけど、きっと目が合っただけで真っ赤になってしまう。

 プイッと顔を背けて、空を見上げた。

 青が輝いて、前髪をゆらす風も爽やかで心地いい。心が躍る素敵な空だ。

 私は思わず目を細めたのに、水樹は意外なことを口にした。


「時々、青すぎる空が苦手になるんだ」


 水樹は右手をのばして、空をつかもうとする。でも空には届かない。綺麗な指先が虚空をさまよって、静かにおりた。

 

「兄貴が入院していた病院がものすごい坂の上にあって……。壁みたいな坂なのに、僕は自転車で。無謀だろ? 死にそうなぐらい苦しい思いをしながら、自転車をこいで、バカみたいなことをしていた」

「私もあるよ。坂道に出くわしたら、なぜか挑戦したくなるの。自転車をおりずに、てっぺんまでのぼってやるって」

「そうそう、最初は僕もそんな感じだった。でも、この坂を攻略したら兄貴の病気が治るような気がしたから、何度も挑戦して、失敗して。そのことを兄貴に話したら、大笑いされた」


 水樹は楽しそうに話をしている。だけど、水樹のお兄さんは――。


「あのとき、兄貴から空を見るようにすすめられた。だから見上げたら、坂と青い空しかなくて。ずっと続く坂道が空へと続いて、僕は青に吸い込まれていくようだった。気持ちよくて病気のことも、悩みも、すべて忘れそうになったのに、坂道を登り切ると現実が待ってるだろ。……兄貴はやまいを克服できなかった」


 私は目を泳がせて、かける言葉を探したけど見つからない。


「空はこんなにも青くて美しいのに、大切な人が消えても変わらない。青すぎる空の色が残酷に思えた。それでも僕はこの空を綺麗だと思ってしまう。いいことも、嫌なことも、すべて受け止めてくれるから。あ、ユイにもあの坂道と空を見せてやりたかったな」

「水樹……、さっきから変だよ?」


 朗らかな笑みを浮かべて、楽しそうに話をしていても、形のいい目に悲しみが浮かんでいる。


「なにかあったの?」


 水樹はなにも答えてくれない。

 

 






 

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