第2話 冷たい
ゴミ箱の近くに落ちていた写真の人。
腕を組んでいたから誤解したけど、水樹は「彼女じゃない」と言った。前の学校でトラブルになった生徒だと。そのような人がどうしてここに?
食い入るように、じっと見つめた。
写真よりも実物の方が大人っぽくて綺麗だった。完全に負けたと、心が叫ぶ。同時に、さっき美咲から聞いた、悪い噂が頭をよぎった。
『生徒に手を出したとかヤバいでしょう』
水樹のことを信じているのに、足が一歩、退く。真実を知る絶好のチャンスでも、悪い噂が本当なら怖い。
このまま逃げる? 逃げない?
すぅっと息を吸い込んで、自分自身に問いかけた。もちろん答えはひとつ。
私は退いた足を前に進めた。
「あなた、誰ですか?」
ここは学校。
部外者がいていい場所ではない。
手をギュッと握りしめて、心を強くした。
不審者を見るような目で、おもいっきり睨みつけた。それなのに、チラッと私に視線を向けただけ。あとは赤いマネキュアをした細長い指で、ねっとりと水樹の机をなでている。
その姿に虫唾が走った。
「水樹の机から離れて。ここは関係者以外立ち入り禁止のはずです。ちゃんと許可をとってますか?」
「もちろん。水樹先生に会いにきたのよ。当然でしょう。あなたこそ、誰?」
「久遠寺ユイ。この学校の生徒です」
「見ればわかるわよ。そうじゃなくて、どうしてここに来たの?」
答えられなかった。
「あらら、もしかして水樹先生に会いにきたのかな? かっこいいもんね」
薄笑いを浮かべて、心の内を見透かしたように言ってくる。
「わたしは今川桃佳。水樹先生の許嫁だったの」
「ウソだッ。そんな話、聞いたことない」
心の中に苦いものが湧き上がってきた。
今川さんはウソをついている。でも心の片隅に、本当だったらどうしよう、と泣きそうな私がいる。
こういうときは不安と動揺を悟られたくないのに、心臓がうるさいほどなって、視線がうろうろ泳いでしまう。
「ふふふふ」
今川さんの赤い唇から笑い声が漏れて、どんどん大きくなっていく。
遠慮のない声でカラカラ笑って、私を見下しているようだった。
頭にきた。
引っ張り出してでも、ここから追い出そうとしたら。
「ユイ、そいつから離れろッ!」
勢いよく扉が開く音と、激しい声が響いた。
それは水樹の怒鳴り声で、凄まじい怒りを感じる。
見たこともない姿に、私はビクッと体を強張らせたのに、今川さんは赤い唇をニィィッと薄く横にのばした。
「あらやだ。水樹先生、やっと会えたのにぃ。冷たいなぁ」
「うるさい、黙れ」
水樹は私を押しのけると、今川さんの腕をつかんで「出ていけ」と言った。
「い、や、よ」
ひらりとつかまれた腕を振りほどいて、今川さんは私の後ろに隠れた。
ひいぃぃ、と心の中で悲鳴が上がる。
怖い、朗らかな水樹が怒ったら、こんなにも怖いなんて知らなかった。
そして水樹は今川さんを睨みつけたままで、妙な静けさが続く。ゴクリとつばを飲み込む音が、狭い数学研究室に響くようだった。
でも、沈黙は長く続かない。
「今でも水樹先生が好きです。愛してます」
私の存在を無視して、いきなり愛の告白がはじまった。
告白の瞬間なんて、テレビドラマでしか見たことがない。
チラッと水樹を見た。
まだ眉のあたりに怒りが浮かんでいる。慌てて視線を反らしたけど、もと教え子からの告白に、水樹はなんて答えるの?
ちょっとワクワクした気持ちになっていた。けれどすぐに、頭から冷や水をぶっかけられた気持ちになる。
「僕は生徒を女性として見ていない。生徒は生徒だ」
水樹の声が氷のように冷たい。
全身の血がスッとさがるのを感じた。ジリジリするほど熱くなっていた胸からも、一気に熱が引いていく。
別になにかを期待していた訳じゃないけど、優しさのかけらもない水樹の言葉に衝撃を受けていた。
「水樹先生、酷い……。あんなにも優しくしてくれたのに」
「卒業しても、何年たっても、今川は僕の生徒で、それ以上は考えられない。帰ってくれ」
「本当のことを言って。水樹先生はわたしを頼りにしてくれた。ずっと、ずっと頼りにしてくれた。それは愛があったからでしょう?」
すがるような今川さんの声に、軽くめまいがする。
水樹も今川さんも背が高い。私の頭の上で、安っぽいドラマのようなことをやっている。
完全に私の存在を無視して、話し続けている。
血の気が引いて冷たくなった体の奥底から、沸々となにかが湧き上がるのを感じた。
「……ムカつく」
「ユイ?」
水樹がハッとして、ようやく私を見てくれた。
「ふたりとも、ムカつく。まず今川さん、だっけ? 水樹はね、誰にでも優しいの。それを愛情だと勘違いして、バカじゃないの?」
誰にでも優しいはずの水樹が冷たい。
勝手に愛情があったと勘違いする今川さんにも、腹が立つ。
「水樹も水樹よ。何様のつもり? こんなに綺麗な人が、勇気を出して告白してるのに、冷たすぎない?」
荒々しいものが胸の中で渦巻いて、止まりそうにない。
「いい大人がふたりして、なにやってるの。ここは学校だよ。水樹は先生でしょう」
水樹を責める口調がどんどんきつくなっていく。
胸が痛い。
――僕は生徒を女性として見ていない。
この言葉が、私を傷つけてくる。
水樹の優しさを愛情だと勘違いしているのは、今川さんだけじゃなかった。
私も勘違いをしているから、今川さんの姿が未来の私に見えてくる。だからやるせなくて、憤りを感じて……。
「水樹は、冷たいよ」
いつの間にか、今川さんの味方になっていた。
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