第3話 奪われた!

 大嫌いなのに、なにをやってるんだろ。

 そういえば、数学研究室に足を踏み入れてから、今川さんの態度が気に入らなかった。

 どこか見下した視線に、バカにした口調。あれは水樹に会いにきた私を昔の自分と重ねて、嫌悪感を抱いたんだ。だから軽蔑のまなざしをやめない。

 水樹に恋しても傷つくだけ。私をかわいそうな子と思っている。

 でも、今川さんはフラれた。こっぴどくフラれた。

 その怒りや悲しみはどこにいく?

 背筋がゾクッとするのを感じた。


「意外と優しいのね。それとも気がついたのかしら、そっくりさん」


 華奢な腕がヌルッと私に絡まり、いきなり後ろから抱きしめてきた。


「なにすんのよッ」


 気持ち悪い。

 体をねじって離れようとしたのに、びくともしなかった。

 それどころか、抱きしめる力がどんどん強くなって痛い。


「ねえ、水樹先生。この子の気持ち、わかる?」


 は? と私は大声を上げていた。同時に手足をばたつかせても、絶対に逃がさないわよと、締めつけてくる。

 きっと水樹に言わせる気だ。

 私もただの生徒。恋愛感情なんてこれっぽっちもないって。

 自分がフラれた腹いせに、私を道連れにする気だ。


「ユイを巻き込むな」


 大きな手が私を救い出そうとした。 


「水樹先生、今度はこのかわいい子がフラれるのかしら?」

「えっ?」


 形のいい目を丸めて、水樹の手が止まった。  


「ふざけたこと言わないで、離してよッ! 私は、水樹をいい先生だと思ってる。フラれるもなにもない」

「ウソばっかり。あなたも水樹先生が大好きで、ここにいるんでしょう?」


 水樹の前で、なんてことを。

 恥ずかしさと怒りが、激しい波になって全身に広がった。


「バカじゃないの。いつ、誰が、水樹のこと――。あー、もう! 離せッ」

「あらら、耳まで真っ赤よ。見て、水樹先生」


 見られたくない。

 とっさに顔を伏せたけど、もう限界。

 

「今川、いい加減にしろッ!」


 攻撃的な怒鳴り声に、ビクッと首をすくめた。

 その瞬間、古い記憶が鮮明に駆け抜けた。


 ――いい加減にしろッ!


 父の怒鳴り声を合図に、激しい言い争いがエスカレートしていく。

 母は狂ったように泣き叫んで、私はガラスの割れる音に耳をふさぐ。

 怖い。

 ふとんの中で震えていた記憶。声を殺して泣いていた記憶。「いらない子」と罵る母の姿。これらすべてが頭の中をかき乱してくる。

 温かいものが消えていくのを感じた。

 

「水樹は、先生だ。私はなにも望んでない。あんたなんかと、一緒にしないで」


 絞り出すような声がようやく出た。

 私は傷つきたくない。

 やっと陽菜から解放されて、勉強も頑張ってきた。美咲みたいに話しかけてくれる人がいて、ほんの少し学校が楽しくなってきた。だから立ち直れないダメージは、もういらない。


「……なによそれ、つまんない」


 パッと手が離れた。

 少しふらついたけど、もうここにはいたくない。

 下を向いたまま「教室に戻る」とつぶやいたのに。


「水樹先生、どうしてそんな顔をするの?」


 不思議そうに尋ねる、今川さんの声。

 ふと顔を上げると、見えたのは水樹じゃなかった。

 水樹に駆け寄る今川さんの後ろ姿だった。

 そして映画のワンシーンみたいに、華奢な腕を水樹の首に回してふたりが重なった。


「んなッ!」


 絹のような黒髪がサラリと舞い上がって、ゆっくりと落ちるだけの短い時間、ふたりはキスをしていた。


「いっ、今川ッ!?」


 水樹は顔を真っ赤にして、今川さんを突き飛ばした。


「ごちそうさま。本当は過去のことを謝りにきたけど、そこの生徒を見て気が変わったの。意地悪してごめんね」


 私の顔をのぞき込んで、手を合わせてくる。

 絶対に許すもんか! と言ってやりたかったのに、今にも泣き出しそうな顔をするから声が出せなかった。

 泣きたいのは、こっちも同じ。


「水樹先生、わたしのせいで……ごめんなさい。でも、驚いた。水樹先生も、そんな顔をするのね。さようなら」

 

 嵐のようにやってきて、散々人の心をかき乱しておきながら、勝手に泣いて、意味がわからない。

 だけど、そんな顔って、どんな顔?

 瞬きをしながら視線を水樹に移した。


「う、うわああああああぁぁぁぁッ、口紅がまだ残ってる!」


 体が爆発しそうなほど大きな声で叫んだ。

 水樹はビクッと肩を上げてから、慌てて唇についた口紅を拭っている。

 もう、やってらんない。


「あ、おい。ちょっと待て、ユイッ」


 呼び止める声を無視して、数学研究室から飛び出した。

 なに、なに、なんなの、あの女。

 謝りにきた? 

 だったら、さっさと謝って出て行けッ。

 意地悪してごめんね、だって? ふざけんなッ。

 絶対に許さない。

 

「あれ? ユイちゃん。今、ものすごい雄叫びが聞こえたけど、どこにいくの? もうすぐ授業がはじまるよ」

「美咲……。そうだ! ロングスカートの女、見なかった?」

「ん? 見てないよ。それより、そこ。数学研究室にいってくれたの? あの噂は」

「ウソだった。水樹は襲ってない。もと生徒がド派手に大暴走して、水樹を困らせただけ」

「おぉ、水樹先生に噂の真相を聞いてくれたんだ。ありがとうー、詳しく教えて」

 

 詳しく……話せない。

 すべてが驚きの連続で、ムカついて、恥ずかしい思いをして、目撃してしまった。

 水樹の唇についた、燃えるような赤い口紅の色。

 新しいトラウマができた気分で、最悪だ。



 






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る