今川桃佳がやってきた

第1話 悪い噂

 ユイって呼んでくれた。

 それが嬉しくてなかなか寝付けなかったはずでも、気がつけば朝。

 まだ起きる時間じゃないのに、カーテンの隙間から差し込む光がまぶしくて、目が覚めた。

 鏡の前に立つと、クセのある毛が四方八方に広がって酷い姿になっている。毎日、毎日、世話のかかる髪だ。サラサラストレートが羨ましい。

 柔らかい風に揺れる、水樹の前髪もサラサラだった。

 一度、なでてみたい。


 朝食はいつも適当。

 眠たいのに朝からご飯を作って食べる気になれない。栄養のことをまったく考えていないから、美容と健康に悪そう。わかっていても、面倒だから仕方がない。

 学校の準備をしながら、ふわふわとした触感と甘さがくせになる、サツマイモたっぷりのパウンドケーキにかぶりつく。

 そして誰もいないのに「いってきます」と、元気な声を出して出発だ。


 学校までの緩やかな坂道は、甲高い笑い声や、悪ふざけをしてじゃれあう生徒たちの声で弾けている。

 ちょっと気後れするけど、数学研究室の鍵を握りしめてまっすぐ進む。

 一刻も早く、賑やかすぎる通学路から抜け出したい。どんどん足が速くなるのに。


「待ってぇー、ユイちゃーん。ちょっと待ってぇー」


 急な呼び声に驚いた。

 振り返ると、夏の光を一気に引き受けたみたいに、肌を真っ黒に焦がした美咲が手を振っている。


「ごめん、ごめん、急に呼び止めて。はー、疲れた。ユイちゃん、足、速いね。ハンドボール部に入らない?」

「えっ、それはちょっと……」

「ウソ、ウソ、冗談。さすがに二年生から運動部はないよねー」


 運動部らしい大きな声と、ニカッと笑う元気いっぱいの顔。

 美咲は陽菜と違って悪い人ではない。でも、水樹のことが気になっているみたいで、いろいろ聞いてくる。かなり仲良くなったけど、ちょっと警戒してしまう。

 また水樹の話をするのかな? と思っていたら、


「ユイちゃんって、水樹先生と仲良しだよね?」


 直球すぎる質問に胸がギクッとした。

 おそらく、たぶん、水樹と一緒にお弁当を食べたり、勉強したりする生徒は私だけ。仲は悪くないけど、さすがに深くは話せない。


「数学を教えてもらうことはあるけど、それだけかな」

「本当に?」


 疑うようなまなざしが突き刺さる。

 心臓がバクバクしてきた。でも、水樹に迷惑がかかったら大変だ。


「ウソついてどうするの。話はそれだけ?」


 不快感をあらわにして、足を速めた。


「いやー、ちょっと先輩から悪い噂を聞いて。ユイちゃんのことが、心配になったから」

「悪い噂って、水樹の?」

「そう、ここだけの話だけど」


 美咲がすっと腕にしがみついて、周囲を確認する。

 誰にも聞かれたくない、といった態度でそっと教えてくれた。


「水樹先生って、前の赴任先で女子生徒と問題になったらしいよ。だから非常勤なんだって、知ってた?」


 そんな話は聞いたことがない。

 目を見開いて、小刻みに首を横に振ることしかできなかった。


「先輩のいとこが水樹先生のことを知ってて、生徒に手を出したとか、生徒の方が先生に夢中になって、辞めさせられたとか。悪い噂しかないんだって」

「それ本当の話?」

「本当かどうかは……ちょっと怪しいけど、水樹先生ってかっこいいのに、生徒があまり近づかないでしょ? きっとなにかあるよ」

「まさか」

「生徒に手を出したとかヤバいでしょう。ユイちゃんはかわいいから、水樹先生の毒牙にかからないように気をつけた方がいいよ」

「ない、ない。あり得ないよ」


 思わず噴き出してしまったけど、実は手遅れ。どうしても頭から離れない。

 空の青さと、水樹の姿。

 形のいい綺麗な目で朗らかに笑って、空をつかもうとする。いつも屋上で日なたぼっこをするから、日なたのいい香りが胸に残っている。

 いつもと違う心の音を感じると胸がギュンとなって、顔が熱い。だけど水樹は、時々寂しそう。


「屋上……」


 小さな声がこぼれた。

 数学研究室があるのに、水樹は屋上にいることが多い。どことなく他の先生や、生徒たちと距離を置いているように感じた。


「ユイちゃん、水樹先生とお話ができるなら、ちょーっと確かめてよ」

「なにを?」

「噂が本当なのか」

「えっ、ムリだよ。そんなこと聞けない」

「そこをなんとか、お願いします!」

「絶対にムリ! そんなこと聞いて勉強を見てくれなくなったら、私、単位落として落第だよ。もう一回、二年生をやり直しなんて、絶対に嫌。ギリッギリの成績だから、水樹がいないと」

「くぅー、残念。でも、水樹先生はかっこいいのに、生徒に手を出したなら最低だよね。まさに女の敵って感じ。ユイちゃん、気をつけるんだよー」


 とんでもない爆弾発言だけを残して、美咲はグランドへいってしまった。

 私の頭は混乱している。

 水樹が女子生徒を襲った? 

 あり得ない、犯罪だよ。そりゃ、水樹は誰にでも優しいと思うけど、考えられない。……だけど気になる。

 上靴に履き替えた私の足は、数学研究室に向かっていた。


 でも、こういう日に限って水樹はいないだろうな。

 校舎の隅っこまできて、半ば諦めた気持ちで数学研究室をのぞき込むと人がいた。


「あれ?」


 鍵はかかっていない。

 おそるおそる扉を開けると、女の人が水樹の机を眺めていた。

 控えめなロングスカートで、羨ましいほどストレートな髪をかき上げている。どこかで見たような人。

 眉をひそめて首を傾げていると、女の人が私に気がついた。


「あら、この学校の生徒さん? こんにちは」


 白い顔に、浮いたような赤い唇がゆっくりと動く。

 思わず「あっ!」と声を上げていた。









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