第4話 ふたりで

 夢の中で僕は中学生だった。

 兄が生きていた頃の、なつかしいけど苦しい思い出。

 入院先の病院まで、無我夢中で自転車をこいでいる。

 季節は夏で、過酷な太陽が照りつけるなか、きっつい坂道をのぼっている。

 壁のような坂道を、あと少し、もう少しと念じながら進む。重たくなったペダルに体重をかけると、汗が滝のように流れた。


『再発した。智也はもうダメかもしれない』


 セミの鳴き声がうるさすぎて、聞き間違いだと思った。でもすぐに二段ベッドのひとつがカラになって、家から兄が消えた。

 辛い闘病生活がはじまっても、兄は我慢強く治療に向き合う。病を克服するために、ICU(集中治療室)に入るほどの重篤な状態に陥っても持ち直して、頑張っていた。

 僕はただそれを見ているだけ。


 兄のためになにかしたい。

 壁のような坂道を立ち止まることなく進めたら、兄の病を消してくれ。そのようなことを勝手に願って、挑戦して、息が苦しくなって、足が止まる。

 今日もダメだったとうなだれて、ゼーゼーと肩で息をしながら、兄を救えないもどかしさに半泣きだ。

 そのことを話すと、派手に笑いやがった。


『あの坂道を、自転車で? バカだろ。そんなことしないで、空、見てみろよ。面白いから』


 坂の下から空を見上げて進んでみた。

 街路樹の、葉と葉の隙間からふり注ぐキラキラとした輝きに目が痛い。だが、それ以上に空が青い。

 坂道をのぼるにつれて、空がどんどん近づいてくる。青いガラスのように美しい空が、手に届きそう。

 目の前のきつい坂道が、どこまでも広がる青い空へといざなう道に見えてくる。

 心が躍るのを感じた僕は、さっそく兄に報告した。


『すげぇ、空だった。退院したら、一緒に見にいこう』


 約束をしたのに、病は次から次へと襲いかかってくる。

 体を痛め、内臓を蝕み、やがて精神を壊していく。

 薄暗い病室で、兄ははじめて弱音を吐いた。


『奏人、俺を助けてくれないか?』


 助けたい。でも、僕は無力でなにもできない。

 どうすればいいのか尋ねると、か細い息のような声で『……殺してくれ』と。

 そんなこと、できるはずがない。


『なあに、簡単だよ。そこの果物ナイフで俺を刺せ。血を流せばもう止まらない』


 皮と骨だけになった、細すぎる体。くぼんだ目の奥に底なしの闇が広がって、血の気のない唇からは絶望の言葉しか出てこない。


 ――やめてくれ!


 強すぎる風が吹いた。

 僕は、窮屈なネクタイを外して屋上にいる。


『いかなきゃ……』


 空は青くて美しいのに、ユイがフラフラとフェンスに近づいていく。

 飛び降りる気だ。

 手をのばした。

 でもつかめない。

 いつだって届かない。


 それは、僕が逃げたから。

 親父は医者を続けている。

 母は研究に没頭して、命を救うことだけを考えている。

 香奈恵も医学の道を選んだ。

 逃げて選んだ、教師への道。

 僕は、いい先生にはなれない。


『辛そうだな』


 振り返ると兄がいる。


『奏人もこっちへくるか?』


 小さな手が差し出された。

 これをつかむと、どうなる?


「カナ兄ぃ、起きてッ!!」


 香奈恵の大声に、ハッと目が覚めた。


「夢……。智也の夢を見たよ」

「知ってる。兄ちゃんってつぶやいてた」

「そっか」


 右目から涙がこぼれた。

 苦しい闘病生活に「……殺してくれ」と頼む姿。

 暗くて冷たい、生気を失ったまなざしで死にたがる姿。

 僕はなにもできなかった。


「カナ兄ぃ、ご飯だよ。あったかいうちに食べよう」


 テレビや映画をみて涙ぐむと「男が泣いてみっともなぁーい」とはやし立てるのに、こういうときはなにも言わない。

 香奈恵の心遣いが身に染みる。

 ふとどこかの詩人の言葉を思い出した。

 人の心は見えない。でも「心遣い」は見える。それと同じように、胸の奥にある思いは誰にも見えない。けれど「思いやり」は見える。そんな感じの言葉。


 ユイが僕に「いい先生」を求めるなら、それに応えよう。

 光を失った死んだ目を見るのはもう嫌だ。

 傷つけ、傷つけられる未来かもしれないが、それでもユイが無事に卒業できることを願っている。

 そのときはふたりで笑っていると……いいな。





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