第11話 知らなかった

 水樹が陽菜を撃退してから、いじめはパタリとなくなった。

 偶然、陽菜と廊下ですれ違っても笑ってこない。くせ毛をバカにしてこない。教科書も上靴も無事だ。

 雲のように集まっていた傍観者陽菜の味方も、中心になる陽菜がおとなしくなれば霧のように去っていく。霧が晴れれば青空が見える。

 陽菜の顔色をうかがっていた人たちが、少しずつ話しかけてくれるようになった。

 これは嬉しいこと。


 反対に、困ったこともある。

 水樹に会いたくて校舎の隅っこに足を運ぶけど、数学研究室に入ると緊張してしまう。

 お弁当だってモグモグ食べていたのに、顔を上げれば水樹がいる。フライドチキンにかぶりつくことができない。大口を開けて食べるのが恥ずかしい。

 だから教科書を持ち込んで、難しい数式を解きながらお弁当を食べることにした。

 問題を解いている間は冷静で、顔が熱くならない。でもお弁当のおいしさが半減して、頭も疲れる。


 そしてさらに困ったことがある。


「ほら、あの人。久遠寺さんを助けた先生だよね?」


 同じクラスの赤佐あかさ美咲みさきが、三年生の教室を指さした。あの日以来、水樹はすっかり有名人だ。


「え、水樹がいるの?」


 そこらのサラリーマンになったらモテそうにない人でも、学校の先生なら「かっこいい」と言われる不思議な世界。本当にかっこいい人がいたら……、目を奪われる。

 水樹のことを知りたがる人が増えて、複雑な気分。


「ほら、こっち。絶対にあの先生だから」


 二年生の私が三年生の教室には近づきたくないけど、強引に腕を引っ張られた。

 教室の後ろの扉からそっと息をひそめてのぞき込んだ。

 片手で教科書を持った水樹がいる。黒板にチョークの音を走らせたり、プリントを配ったり。少しかすれた声で難しい授業をしていた。


「本当に先生だったんだ」


 それが正直な感想。

 水樹は屋上に閉じ込められた変な人で、空を眺める瞳は少年みたい。初対面でも親しみやすい雰囲気があって、ビュンビュン尻尾を振ってよってくるコロンにそっくり。それなのに、教壇に立つ水樹は朗らかな笑みを浮かべない。形のいい目が優しさを失って、どこか冷たい感じがする。ロボットみたい。

 淡々と授業を進める姿は先生らしいけど、別の人に見える。


 いつもの水樹の方がいいな、なぁーんて考えていたのに「かっこいいね」の声があちこちから聞こえる。

 廊下にハートマークがたくさん飛んでいるようで、嫌な気持ちになった。だからここから離れようとしたのに、水樹と目が合ってしまった。

 今まで感じたことのないドキッに襲われた。見つかったという感覚とも違うし、会えて嬉しくなる気持ちとも違う。

 慌てて顔を背けても、目線は再び水樹のもとへ。

 授業を進めていた水樹の手が一瞬止まった。でもすぐに、涼しい顔をして授業を進めていた。


 ……なんだろう。軽く無視された気分。

 胸の中がザラザラして気持ち悪い。

 もっとたくさん話がしたいのに、笑いながらお弁当を食べたいのに、心にブレーキがかかって素直になれない。

 いったい私はどうしちゃったの?

 ついこないだまでできたことが、まったくできない。心が「会いたい」「話したい」って叫んでいるのに、反対のことばかりしてしまう。


「教室に戻るね」


 美咲に言ったのに、水樹に夢中で聞いていない。

 つかめそうでつかめない空を思い出した。

 先生と生徒。水樹と私の距離も同じ。

 出会った頃の私なら、微妙に開く距離に不満を抱いて水樹にぶつけていた。気に入らないことがあれば「離れてしまえばいい」と平気だった。なのに今は、苦しい。


「あ、そうだ。久遠寺さん、知ってる? あの先生の好きなタイプ」

「知らない」

「部活の先輩からちょっと聞いたんだけど、『ありがとう』とか『ごめんなさい』がきちんと言える女性だってぇー。いかにも「先生」って感じの答えでしょう」

「へぇー、そうなんだ」


 軽く笑いつつ、顔が引きつっていく。

 お弁当を食べるとき「いただきます」と「ごちそうさま」はちゃんとしているつもり。時々怒って片付けをしなかったけど、「ありがとう」を言った記憶がない。

 陽菜から守ってくれたのに、まだお礼もしていない。


「逆に人の顔をこっそり見にくる人や、キャー、キャーいう女の子は苦手なんだって」

「うっわぁ、いかにもモテ男の台詞って感じ。あ……れ? こうやってのぞき見してるのって」

「あ、嫌いなタイプになっちゃうね」


 美咲はケラケラ笑っているけど、立っているのが苦しくなるほどの目まいがした。

 今、私はこっそり水樹を見ている。しかも、お礼ができない最悪な女。嫌われるようなことばかりしていた。

 さっきの態度、目が合ったのに無視してきたのはきっと幻滅したんだ。

 もう合わせる顔がない?

 せめてお礼だけして……って、できる?

 ゴチャゴチャ考えはじめるともうダメだった。


『ユイの方がかわいいと思うよ』


 あの言葉がなければ普通に話ができて、フライドチキンの軟骨までバリバリ食べたと思う。

 全部、水樹が悪い。


 私は知らなかった。「恋の病」という言葉を。

 好きな気持ちがふくらむと緊張してしまうこと。顔が赤くなってしまうこと。何気ない一言をいつまでも深く考えてしまうこと。

 もっと好きになると、どうなってしまうのか。

 私は何も知らなかった。






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る