第10話 りんご顔

 陽菜がポカンと口を開けて、驚いた顔をしている。

 私もびっくりして、魚のように口をパクパクさせた。

 堅くて冷たい廊下に後頭部から倒れそうだったのに、骨格のしっかりとした、厚みのある胸にすっぽり収まっていた。

 水樹の大きな手が私の肩を抱いて、後ろから支えてくれた。


「今のは危ないぞ。頭から落ちそうだった」

「どうしてここに?」


 ゆっくりと体を起こしてくれたけど、水樹は私の質問に答えなかった。形のいい目を鋭くとがらせて陽菜を見ている。


「水樹?」


 あまりにも険しい表情を見せるから、私はシャツの裾を引っ張った。

 水樹はハッとして朗らかな笑みを浮かべたけど、またすぐにもとの表情に戻って私の前に立った。


「きみは、久遠寺さんの後ろから僕が来るのを見ていたはずだ。それなのに久遠寺さんを突き飛ばした。教師の前でいい度胸だな。名前は?」

「教師? あなた非常勤じゃない。私の名前を聞いたって、なあーんにもできないくせに笑わせないで」


 陽菜は水樹のネームプレートを指さして、勝ち誇った顔をしていた。

 非常勤講師は決められた時間に授業をするだけ。学級担任にはなれないし、生徒指導も行えない。

 弱い立場の人には、いつだって強気な陽菜だった。


「ユイもバカよね。非常勤にいじめの相談をしたって無駄なのに」

「へぇ、詳しいな。僕のこともリサーチ済みだったとは。そんなに久遠寺さんのことが好きなのか」

「はあぁ? バカじゃないの。この状況で好いてるように見えるの?」

「だって、久遠寺さんのことが嫌いなら、無視すればいいじゃないか。それをわざわざ追い回して、僕のことまで調べて。そんなに気になるのか?」


 からかうような水樹の声に、陽菜の頬がピクピク動いていた。そしてみるみるうちに怒りで顔を赤くしていく。


「追い回してないし、気にしてる訳ないでしょう。ユイが気持ち悪くて目障りなだけよッ!」

「おや? 真っ赤な顔をして、図星だったか。これは、これは、邪魔しちゃったかなぁー?」


 火に油を注ぎまくっている水樹を止めなきゃ。頭ではわかっていても、私は恐ろしくて一歩退いていた。

 怒りが頂点に達した陽菜は肩を震わせて、今にも平手打ちが飛んできそう。


「陽菜ちゃん、もうやめよ。教室に戻ろう。一時間目は体育だよ」


 騒ぎを聞きつけて、教室から飛び出してきたのは穂乃花だった。いつも陽菜の顔色をうかがって、威圧的な態度と視線に逆らえない人。


「うるさいッ、命令しないで」

「そ、そんなつもりは……」


 穂乃花が泣きそうな顔でおろおろするなか、廊下が騒がしくなってきた。


「穂乃花がかわいそう」

「怒鳴らなくてもいいのに」

「あの先生、誰?」


 騒ぎを遠巻きに見ている生徒。教室から廊下をのぞき込む生徒。それぞれが口々に勝手なことを言い出して、収拾がつかない。なかでも「紺野さんってそういう趣味だったの?」と、キャッキャッ笑い騒ぐ声が多くて、陽菜はますます怒りの色をにじませていた。

 陽菜は怒ると顔が赤くなるタイプ。でもそれが裏目に出て、真っ赤な顔をした陽菜と、水樹の後ろで怯える私。

 えー、私は陽菜に告白されて「それはちょっと」とドン引きしている姿に見えるのか。水樹の言葉のせいで、もうメチャクチャだ。


「大好きな子をいじめたくなる気持ちはわかるが、高校生だからな。もう少し大人になれないか?」


 大きくうなずきながら悪意のある笑みを浮かべる水樹は、もう陽菜を見ていない。わざと通る声を出して、集まってきた生徒に聞かせているようだった。


「あー、もう、バカバカしいッ! エロ漫画の読み過ぎよ! クソ教師めッ」


 捨て台詞を吐いて、陽菜は教室へ戻ってくれた。


「ひっどい言葉だな……あ、大丈夫?」


 私は首を左右に振った。

 水樹が来てくれるとは思いもよらなかった。しかも、気に入らないなら無視すればいい。わざわざ嫌がらせをするために追い回さないでほしい。陽菜に向かって言いたかった言葉をすべて言ってくれた。

 驚きと嬉しさがごちゃ混ぜになって、混乱している。たくさんの言葉があふれているのに、声が出ない。

 ただ目に涙がたまって泣き出しそうだった。


「まだ泣くな。ここで泣くな。もうすぐ一時間目がはじまるから」

「わかってる……でも」

「ほら、雨がやんだみたいだぞ」


 水樹が窓を開けて空を眺めるから、一緒に並んで同じ空を見た。

 灰色によどんだ雨雲が去っても、空はまだ薄墨色だった。どこにも澄んだ青はない。でも、小さな白い点が鈍く光っているのが見えた。それが雲に隠れた太陽の光だと気がつくと、涙は寸前のところで止まって落ちなくなった。


「水樹のことがよくわからない。どうしてここに?」

「数学研究室の鍵、机の上に忘れてたから」


 イルカのキーホルダーがついた鍵をポケットから取り出した。

 それは忘れたんじゃなくて、もういらないって意味だったけど、水樹の顔が嬉しそう。

 投げたボールを満面の笑みを浮かべて持ってくる、愛犬のコロンにそっくりだ。

 私は鍵を受け取った。


「さっきの生徒が紺野陽菜か? 複雑な悩みがありそうな生徒だな」

「陽菜に悩みなんかある訳ないよ。意地悪なくせに友だちに囲まれて、賢いし。学年トップの常連だよ。おまけに背が高くてスタイル抜群だから、モデルみたいにかわいいし」


 ムッとして答えると水樹は口元に笑みを浮かべた。


「ユイの方がかわいいと思うよ」

「は?」


 心臓がまたドクンっと大きな音を立てた。

 すると急に耳が熱くなって、水樹の顔が見られない。


「そ、そういうことは、彼女にだけ言えばいいのに。私、見たんだから。おとなしくて控えめな人と水樹が……写真で……腕を……」

「机の中を見たのか?」

「違う、ゴミ箱の近くに写真が落ちてたから」

「ああ、あれか。あの人は彼女じゃない。前の学校でトラブルになった生徒だ。おっとチャイムが鳴った。教室に入れ」


 水樹の手が私の背中をポンッと押した。

 今までに感じたことがない温かさが、水紋のように広がっていく。

 心の中にあった雨雲が、一気に真っ白な雲へと生まれ変わっていくような、とても不思議な感覚がした。


 でも、トラブルになった生徒ってどういうこと?

 聞きたくても今の私はきっとリンゴ顔。「かわいい」と言われた衝撃が大きすぎた。

 席についても胸がドキドキして、気を抜けば頬が緩む。

 陽菜と対峙して怖かったのに、水樹が来てくれて喜んでいる。さようならの意味を込めて鍵を置いてきたのに、黙って受け取った。そしてあの写真の人が彼女じゃないと聞いて……チョロいな私。

 単純すぎて嫌になる。

 






 

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