第9話 決定的な証拠

 水樹から貰った鍵は長細くて、冷たい銀色だ。家に帰ってから鍵に合うストラップを探した。

 おばあちゃんが作ったビーズの虎や、餃子の形をしたキーホルダーなどヘンテコな物しかない。


「あ、これにしよう」


 ベテランの木工職人が作った、イルカのキーホルダー。つるつるした手触りと、海を閉じ込めたような青い鈴が気に入って買ったのに、ガラクタ入れに沈んでいた。

 鼻を近づけると、かすかに森の香りがする。

 水樹に見せよう。……でも、昨日はお箸をたたきつけて、片付けもしないで数学研究室を飛び出した。思いっきり睨みつけたし、朗らかな水樹でも怒ったかもしれない。


 どうしよう。どうする? と、あれこれ考えながらふとんに潜り込んだから、今朝はとても眠い。水樹を信じたい気持ちと疑う心が天秤にのって、目が覚めてもグラグラ揺れたままでもう疲れた。

 

「休もうかなと」


 学校は楽しい場所じゃない。それならいかなきゃいいのに、サボると二度と学校へいけなくなるような気がして、制服に着替えてしまう。

 サクサクのメロンパンをお腹に詰めてから、いつもより三十分早く家を出た。

 カバンの中には上靴が入っている。どうなるかわからないけど、水樹の絵を靴箱に入れてきた。


 屋上から飛び降りる決意をしたのに、陽菜を怖がるのはバカみたい。階段から突き落とされても証拠をつかんでやる。黙ってやり過ごしてきた私の過去が変わらないなら、過去を見直して反撃だ! と勢いよく絵を置いてきた。

 きっと陽菜が真っ先に発見して、火の玉のように怒り出すだろうな。


 緩やかな坂道を歩きながら憂うつな気分と戦っていた。

 体育館からかけ声とボールの音がする。どこかの部活が朝練をしているのだろう。今日も雨だから、いつもよりかけ声が激しい。


 校門が近づくと、いよいよ逃げ出したくなった。傘で顔を隠して昇降口に向かったけど、陽菜がいる。

 思わず回れ右をして、校舎の隅に駆け出した。

 心臓が壊れそうなほどバクバクして、傘を持つ手が震えている。一階の渡り廊下で靴を脱ごうとしたけど、もたついた。

 後ろから陽菜が追いかけてきそうで、怖い。

 息を切らせて数学研究室に逃げ込んだけど、水樹はいない。静まり返った室内にはコーヒーのほろ苦い香りと、私が連れてきた雨の匂いがする。


「私がいないときは、コーヒーを飲むんだ」


 水樹の椅子にどかっと腰をおろして、頬杖をついた。

 ここではまろやかな甘さのお茶しか知らない。コーヒーを勧められたことは一度もない。子ども扱いされたようでイライラする。同時に、私は何をやってるんだろうとむなしくなった。

 カチコチと規則正しい音を立てる壁時計は、八時十五分。ノートを破って「ごめんなさい」と書いたけど、クシャッと丸めた。


「ゴミ箱は……」


 机の近くにゴミ箱がない。

 目についたのは、ペンキが入っていそうなブリキの缶。半透明のゴミ袋が見えるから、これがゴミ箱?

 中をのぞき込むと、手紙が捨ててあった。

 ピンクの便せんに、ハートが描かれた手紙。思わず拾い上げて読みそうになったけど、パッと手が離れた。

 ゴミ箱の傍に写真が落ちていた。

 それは水樹と知らない人が腕を組んでいる写真。

  ロングスカートのしとやかな女性が、いかにも嬉しそうな顔をして笑っている。

 目を見張る美人でもないし、控えめで地味な感じ。でも、浮いたような赤い口紅が、水樹のために一生懸命メイクしたと物語っている。


「彼女……かな?」


 私はゴミ箱から離れて、机の引き出しを開けていた。

 カラフルな寄せ書きのほかにも、平塚や保健の先生と一緒の写真もある。どこかの旅館で他の先生もいる。

 どの写真の水樹も心の底から楽しそうで、私に見せる顔とは違う。

 ハンマーで頭を殴られた気分だった。


 水樹はあれだ。

 どこかの正義の味方みたいに『みんな大好き』なんだ。だから私に手を差し伸べた。

 やっぱりただそれだけのことだった。


「いらないよ」


 誰にでも向ける優しさはいらない。 

 曇ったガラス窓に大きく『水樹のバカ』と書いてみた。するとすぐに水滴がしたたり落ちて、文字は崩れていく。

 バカは私だった。

 写真なんか見なきゃよかったと後悔している。


 今日の空は青くない。水樹もいない。

 色鮮やかだった思い出が、すべてねずみ色に塗り替えられていく。

 昨日からわかっていたことでも、ハッキリした証拠が胸に突き刺さって痛すぎる。

 水樹には彼女がいて、旅行するような友だちもたくさんいて、私とは違う世界に住んでいる。


「バイバイ、水樹」


 私は数学研究室の鍵を机に置いて廊下に出た。

 これから授業がはじまるというのに、泣きそうで嫌になる。

 二年生の教室が並ぶ廊下で立ち止まった。

 このまま屋上にいくことだってできる。でも――。


「陽菜……」

「上靴の絵、上手だったよ」


 その声はどこまでも明るいのに、目が笑っていない。

 激しい怒りの炎を内にため込んで、いつぶつけてやろうかとほくそ笑む陽菜がいる。


「ユイのくせに、生意気なことするのね」

「…………」


 やはりいつも上靴を捨てているのは陽菜。水樹の絵を見て激怒している。


「湿気の多い日は大変だよね。くせ毛が爆発してみっともない」


 フッと鼻で笑って、ぐっと近づいてきた。


「言い訳を聞いてあげてもいいよ。最近、いじめの相談をしてるんだって?」


 陽菜は同級生。

 格闘家でもないし、噛みつきもしない。今ここで殴ってこないことも知っている。それなのに、さげすむ声と怒りに満ちた大きな目で睨まれると怖い。

 戦うと決めたはずなのに、陽菜が近くにいるだけで心臓を強く握りつぶされるような感覚がする。

 胸が苦しくなって、呼吸が乱れる。

 身を縮めて廊下を見ることしかできない。


「気持ち悪い子ね。いい加減にこっちを見なさいよッ!」


 肩を強く押された。

 雨の日の廊下はよく滑り、震えた足と硬直した体ではうまくバランスがとれなかった。

 押されたら押されたまま、私は弱々しい棒きれのように倒れていく。


「危ないッ!」


 声がした。

 その瞬間、雨の日に感じる嫌な匂いを日なたの香りが打ち消した。












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