第8話 雨模様
「大人には大人の考え方や色々な事情があるから、そんな言い方はいけない。ちゃんと久遠寺さんの生活を考えてるはずだ」
「うるさい。……おじいちゃんみたい」
「僕はまだ二十代なのに、オッサンを通り越しておじいちゃん? ……酷いなぁ」
ショックを受けている様子だけど、私はお説教を聞きに来た訳じゃない。おいしいお弁当を食べて、ちょっぴり素敵な人と楽しい時間を過ごしたいだけ。いじめとか、惨めな話は忘れたい。でも水樹は違った。
「とにかく、このままの状態はよくない。証拠が必要だな」
白い紙を取り出して、黒のマジックを走らせている。
黒い線はあっという間に上靴の形になって、吹き出しがついた。吹き出しの中には『残念でした! 上靴はないよ~』と。
「この紙を靴箱に入れて、上靴はそこのロッカーに入れておけ」
「何よこれ……。上靴の絵は上手だけど、こんなの陽菜が目にしたら殺される。火に油を注ぐって言葉、知らないの?」
「火に油を注ぐか。まさにその通りだな」
水樹は思いっきり笑い出した。
「陽菜を知らないくせに、笑わないでよッ」
「ごめん、ごめん。でも相手も同じ高校生だろ? 格闘家でもないし、噛みつきもしないし、殴ってきたこともないだろ。そいつのどこが怖いの?」
「そりゃ……」
どこが怖いのか考えてみたものの、うまく言葉が出てこなかった。
上靴がなくなるのは、もう慣れたから怖くない。体操服も教科書もお金があればどうにでもなる。
話しかけても無視されるのが怖い? そんなことはない。そもそも私から陽菜に話しかけない。
バカにしたような口調で笑われるのが怖かった? 嫌だなぁと思うけど、怖いとは少し違う。
「何かあったら僕が助けにいく。ここを自由に使って久遠寺さんの居場所にするから、それじゃダメか?」
「私の……居場所?」
よくわからない感情の塊が、胸の中でぐっと大きくふくらんだ。すると急に息が詰まって、泣きたくないのに涙が出そうになる。
『あんたがいればあの人が帰ってくると思ったのに! あんたなんかいらない。出て行けッ』
怒鳴り声と共に長い髪を振りみだす母は、大きな手を振りあげて私の頬を引っ叩く。泣いたら、泣くなとどやされて、泣かなかったら泣くまで――。
暴力に飽きたら、母は私をつまみ出す。玄関のドアをたたきながら、居場所がなくなる恐怖を刻まれた。
学校には私の席があった。
みんなで食べる温かい給食は大好き。勉強ができたから、先生には褒められた。教室を新しい居場所にしたかったけど、父のせいで長く続かない。
私はスキャンダルにまみれた俳優、久遠寺公康の娘。
これが母を苦しめて、周囲から好奇なまなざしを向けられる。いつだって新しい居場所を作る前に奪われてしまう。
「久遠寺さん、どうしたの?」
暗く沈んだ心に水樹の明るい声がふってきた。でも水樹は先生だ。平塚のこともあるし、信用できる人かどうかはわからない。ちょっとした正義感から、いじめに遭うかわいそうな生徒に手を差し伸べただけ。そう考えると心がスーッと冷えて惨めな気持ちだけが残った。
「私は、このままでもいいの。陽菜はずるいから、どうせ何も変わらないと思う」
「変わらないのは過去だけだ。どんなに頑張っても過去はやり直せない。でも、見直すことはできるんだ。過去を見直して、前に進むことはできる」
「過去を……見直す?」
水樹は大きくうなずいた。
「証拠がないなら、証拠をつかもう。久遠寺さんには諦めてほしくないんだ」
私には?
まるで水樹は何かを諦めてきたような口調だった。
不意に青いガラスのような空にぐっと手をのばす水樹の姿を思い出した。
あの日の空はどこまでも青くて心が震えたけど、水樹の横顔はどこか寂しげで消えてしまいそうだった。
「……わかった。上靴はここに預ける。その紙もちょうだい」
「そうか。それじゃこれも渡しておく」
上靴の絵と一緒に鍵を渡された。
「これは?」
「数学研究室の鍵。僕は毎日ここにいる訳じゃないから、渡しておく」
「……いいの? 机の中とか勝手に見るよ?」
意地悪な笑みを浮かべてみたけど、ふわりと水樹の大きな手が頭の上にポンッとのった。
「構わないよ。見られて困るような物は入ってないし」
無垢な少年のような笑顔。
出会って間もない生徒を簡単に信じて、あれこれ手を差し伸べて。
私には理解できない。
でも……。
「ずるい」
水樹はずるいと思った。
屈託のない笑顔で私の心に入ってきたくせに、この学校に毎日いないってどういうこと?
鍵ひとつ渡して、
「えっ、ずるい? どうして?」
「この紙を靴箱に入れて陽菜が激怒したときに、水樹がいなかったら……。私、殺されるかもしれないよ? それじゃまったく意味ないでしょう。また誰も助けてくれなかったら、今度こそ――」
屋上から飛び降りて、死んでやる。
中途半端な優しさはいらない。
つかんだ手を離されるのはもうこりごりだ。言われた通りにしてみようと思った私がバカだった。
「水樹、ほっぺにケチャップがついてるから。大人のくせに子どもみたい」
「うわっ、本当だ。あ、待って。ちょっとぉー」
水樹の優しさから逃げ出した。
つかんだ手は離される前に私から離す。深く傷つく前に身を引いた方がいい。そうすれば心に傷が残らない。
「よし、決めた。もう水樹には頼らない」
決意を口にしたのに、水樹の描いた絵と鍵をしっかり握りしめている。ゴミ箱が目に入っても、捨てることができない。
誰にも頼らずひとりで生きる。嫌になれば死ねばいいと割り切りながら、いつもどこかで何かを期待している浅ましい心に嫌気がさす。
心にたまるモヤモヤが雨雲のように重たくのしかかると、急に鏡のように輝く澄んだ青い空が見たくなった。
雨粒が窓ガラスにぶつかり、滝のように流れ落ちるのを恨めしく思いながら、授業中も休み時間も水樹から渡された鍵をずっと眺めていた。
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