第12話 名前で呼んでくれますか

 いつもの自分になれない私は、数学研究室にもいけなくなった。

 目を閉じれば、いつだって水樹の声と姿が思い浮かぶのに、そのあとにやってくる心の鼓動が邪魔をする。

 それでも水樹に会いたい。

 今日こそは、今日こそは、今日こそは……を何度も繰り返して、無駄な日々を過ごしていた。


「あっっつい……」


 いつの間にかうっとうしい雨雲が姿を消して、空は初夏の輝きを放っている。澄み渡る空の色は、はじめて屋上で目にした青にそっくり。


「よし、決めた!」


 ぐっと拳を握りしめて、校舎の隅っこへ。

 青すぎる空に勇気をもらった私は無敵だ! ……でもこういう日に限って水樹はいない。

 ほろ苦いコーヒーの香りがまだ残っているのに、数学研究室はもぬけの殻。

 だけど私は知っている。

 今日の空はどこか胸を躍らせる。こういう日にはきっと。

 久しぶりに屋上への階段を駆け上がった。

 周囲に誰もいないのを確認してから、鉄の扉へと向かう。


「当たりだね」


 鉄の扉にいまいましい南京錠がなかった。

 鼓動が加速して一瞬ためらったけど、もう一度あの空が見たい。

 青すぎる空の色を真下で、水樹と一緒に。

 ありったけの勇気と力を込めて鉄の扉を押した。


「ぃでっ!」


 ドゥォンと鈍い音がして、痛そうに頭を抱える水樹がいた。


「わわわ、ごめんなさい。そこに座ってるとは思わなくて」

「なんだ、久遠寺さんか。ここには来るなって言っただろ? いってぇ……」

「あ、えっと、そのぉ……、ごめんなさい、天気がいいから」

「そっか、久しぶりに綺麗な空だもんな」


 いつもならここでニコッと笑ってくれる。そう思っていたのに、朗らかな笑みはなかった。冷たく突き放すような視線を放り投げて、水樹は立ち上がった。

 水樹が水樹じゃない。

 やっぱり手遅れ? 嫌われた?

 バクバクとなる鼓動が、重苦しくて泣きたくなる。それでも今日は言わなくちゃいけない。


「あのね、水樹。いつも、いっぱい助けてくれたのに、私……ごめんなさい」

「どうした? さっきから謝ってばかりで」

「お弁当のお礼を言ってなかった。陽菜のことだって。本当に守ってくれてすごく嬉しかった。そのお礼も言ってないし、こっそり教室をのぞいちゃって……」

「あー、この前の。子猫がドアを開けてくれって、ニャアニャア鳴いてるみたいで噴き出しそうになった。三年生は大事な時期だから、ああいうのはやめてくれ」

「……ごめんなさい」


 いつもと雰囲気が違う。

 初夏らしく澄み渡る空のもとで、手をのばせば届きそうな距離にいる。それなのに、生徒に数学を教えているときの顔だった。水樹がとても遠い。

 ここで一緒にお弁当を食べて、笑いあった日がウソのよう。


「はあぁ、やっぱり僕はダメだな」


 突然深いため息と共に肩を落としてうなだれた。それから弱々しい笑みを浮かべて「叱られた」と。


「どうして?」

「……生徒の問題に介入しすぎだって」

「生徒の問題って私と陽菜のこと? すごく助かったのに? とっても嬉しかったんだよ。それがいけないことなの?」

「僕にもよくわからない。やっぱり、教師に向いてないのかな」

「そんなことない!」


 私は忘れていた。

 あの陽菜が、屈辱を受けたままで終わるはずがない。

 ちょっと喧嘩しただけなのに水樹が大袈裟に騒いだとか、たくさんの生徒の前で責められて辛かったとか。お得意の名演技を披露したに違いない。

 しかも担任ではなく、より権限のある学年主任の先生に。


「水樹がいなかったら……私……」


 屋上から飛び降りて死んでいた。と言いかけて口をつぐんだ。

 これは言ってはいけない言葉。でも、水樹は悪くない。

 

「い、いじめを見て見ぬふりをする先生よりも、水樹の方が立派な先生だよ。私は助かったんだよ。話しかけてくれる人が増えたし、教科書も上靴もなくならないし。それのどこがいけないの? 水樹を叱るなんて、絶対におかしい」

「そう言ってくれるのは久遠寺さんだけだよ。……ありがとう」


 優しくほほ笑むけど、その表情が痛々しくて私の胸を貫いた。

 きっと私の言葉は水樹に届いていない。

 同情や慰めだと思われている。

 違う。そんなんじゃない。


「水樹のバカッ!」

「えっ?」

「この前はユイって呼んでくれた。それなのに、久遠寺さん、久遠寺さんって、どういうこと?」


 なにを言ってるんだーッ、と頭の中が大騒ぎ。

 陽菜との問題に水樹を巻き込んだから、辛い思いをさせている。まずそれを謝るべきなのに、水樹はどこまでも大人で、先生で、この縮まらない距離がもう嫌だった。

 心が潰れそうで、感情を爆発させてしまった。


「水樹がいなかったら……、水樹がいてくれたから……」


 泣くのを我慢すると声が出ない。それでも伝えたい。私は「ありがとう」を言いたくてここに来た。冷静になれと言い聞かせてもダメだった。

 私の口からこぼれた言葉は――。


「ユイって、呼んでよ」


 えっ、とまた驚く声がした。いきなり「水樹のバカッ!」って言われたときよりも、目を丸くしている。顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。

 あとで、絶対に、変なこと言わなきゃよかった、と必ず後悔する。その姿がありありと浮かぶのに、止まらなかった。


「名前で呼んでくれますか?」


 水樹は返事に困っている。

 妙な沈黙と張り詰めた空気が、私の失敗を物語っていた。


「ご、ごめんなさい。久遠寺さんでいいです。とにかく、水樹はいい先生だよ。大丈夫。数学、とってもわかりやすく教えてくれたから、ちょっとだけ点数が上がったよ。平塚もびっくりしてた。これも全部、水樹のおかげ。だから」


 困らせたくないから早口に励ます言葉を並べてみたけど、薄っぺらい。

 水樹とはじめて出会った日、私の瞳に映った空は青いガラスのように輝いていた。

 あのときから好きがふくらんで、大好きがあふれて、割れちゃった。

 でも胸の奥がすっきりしている。

 思いは通じなくても、水樹の幸せを願うことはできる。少しでも笑顔を取り戻したい。


「ありがとう、ユイ」

「はひ?」


 ものすごく間抜けな声が出た。

 名前で呼んでほしいと言っておきながら、足の先から頭のてっぺんまでボッと火がついたみたいに熱い。


「えーっと」


 水樹が照れくさそうに頭をかいた。

 でもすぐに空を見上げて、大きく背伸びをした。

 

「なんか元気がでた。次の授業も頑張るよ」

「うん!」


 優しい声に、朗らかな笑顔。

 いつもの水樹に戻ってくれた。それがとても嬉しくて、私は気がつかなかった。

 青すぎる空を眺める瞳に映った、水樹の気持ち。

 辛さで心が痛んだままだってことを。







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