第5話 私のことを知っていた?

 それから一週間が過ぎた。

 今日の空は薄雲が一面に広がって、せっかくの青を霞ませている。水樹と出会ってから空を見上げるようになったけど、澄んだ光を放つ青に出会えない。脳裏に焼きついた色をもう一度見てみたいのに、はあっと落胆的なため息をつくことしかできなかった。春らしいポカポカ陽気でも、心が沈む。


「どうせ私の願いはいつだってかなわない。はいはい、そうでした」


 四時間目が終わったばかりの廊下で、愚痴をこぼした。遠くの景色が見えにくくなる春霞に阻まれて、あの日からスカッと晴れ渡る空を見ていない。水樹の姿も。

 うまくいかないのはいつものこと。諦めてしまえばそれでいいのに、水樹は私のことを「久遠寺さん」と呼んだ。初対面なのに、私の名前を知っていた。

 どうして? が頭の中をグルグル回りはじめると、いても立ってもいられない。水樹に会って確かめよう。でもひとつ、怖いことがある。


 久遠寺公康の娘ってことが先生の間でも有名になっていたら、どうしよう。『私』ではなく、俳優の娘だから声をかけた。それが答えなら失意の底に叩き落とされそうだけど、とにかく心の中のモヤモヤをすっきりさせたかった。ただそれだけなのに、それすらかなわないなんて……。


 昼食のパンを食べる前に職員室をのぞき込んだ。あれだけのイケメンだからすぐ見つかると思っていたのに、どこにもいないなんておかしい。本当にこの学校の先生だったのか。それすら怪しくなってきた。


 精神的に追い詰められて、都合のいい幻を見ていた……。なんてバカなことを本気で考えてしまう。こんなときに友だちがひとりでもいてくれたら、水樹のことを聞き出して一緒に捜すのになぁ。陽菜とクラスが離れても、私はひとり。会いたいなら自分で捜すしかない。

 コンコン、ではなくドンドンと荒々しくノックして職員室の扉を開けた。


「こら、久遠寺! ドアを壊す気か?」


 すぐさま平塚の声が飛んできた。話しかけるのも嫌だけど、水樹を捜すには同じ先生の平塚を頼るしかない。


「失礼しますと言ってから入れ」

「水樹先生を見かけませんでしたか?」


 どぎつい声で「やり直し」と言われる前に詰め寄った。


「水樹先生なら、今日は帰ったかもしれないな」

「帰った? 先生なのに? 午後の授業は? いったい何者ですか? 本当にここの先生ですか?」

「ちょっと落ち着け。そんないっぺんに質問するな。水樹先生は非常勤だから、授業のあるときだけこの学校にいる。用事があるなら伝えとくけど?」

「あ、いや、その……結構です」

「遠慮するな。どうせ久遠寺のことだから、先週のお礼をまだしてないとかだろ?」

「お礼?」


 眉をひそめると、平塚は首を傾げた。

 先週、屋上から飛び降りることだけを考えて授業をサボった。サボりにはきついお仕置きが待っている。

 親の呼び出しや停学はもちろん、成績不振なので退学なんてことも考えられる。そこで水樹が「気分が悪くなって廊下の隅でうずくまっていた、ということでどうだ? うん、そうしよう」と言い出した。


「あっ! そうです。それ、倒れたときのお礼を……。でも大丈夫です。お礼は自分の口から言いたいので」

 

 あのとき、水樹は端整な顔をさらに真面目にしてウソをついた。屋上でばったり出会ったことは話さず、一階の廊下でうずくまる私に声をかけた。その後はずっと保健室に。保健室の先生も「水樹先生がそうしてほしいなら」と言って頬を赤く染めながら、保健室の利用書を書いてくれた。平塚に利用書を見せると、鋭いまなざしが言葉よりも早く語りかけてきた。「どうせサボりたろ?」と。


 見透かされて心拍数が上がったのに、水樹は涼しい顔でまたウソの説明をする。するとどうだ。私のことは一切信じようとしないのに、イケメンの言うことなら一欠片の疑いを持たずにコロッと態度を変えたのだ。

 今だって水樹と話がしたいから、私をダシにするつもりかもしれない。そんなことさせるもんかと平塚の申し出を断ったら……。


「話はそれだけか?」

「えっ、あ、はい」

「それなら早く教室に戻れ。昼食、まだだろう」


 平塚はもう私を見ていない。忙しいのに話しかけるな、と言いたそうな横顔を見せつけるだけ。ムカついたけど「ありがとうございました」と軽く頭を下げて廊下に出た。あんな大人にはなりたくない。

 でも水樹は違っていた。

 どんよりとした暗い世界にパッと明るい色を届けてくれた。だからもう一度会って、話がしたい。そう願って耐えてきたのに、やっぱり学校は面白くない。息苦しい。すべてを終わらせたい。

 突然心に飛び込んできた美しい空の色を胸にしまって、本来の望みをかなえよう。それも悪くない気がして、私は屋上へ向かった。


「今日でやっと……さようなら、だね」


 冷たく見下ろす鉄の扉は怖くない。私を拒み続けた鍵の番号も、しっかりと記憶している。ドキドキする胸を押さえて、大きく息を吸い込んだ。


「あれ?」


 よし! と気合いを入れて手をのばしたのに、あるべきはずの物がない。何度も何度も私の邪魔をした南京錠がない。トクンと心臓の音が変わるのを感じた。

 誰かが南京錠を開けて、屋上にいる。それはきっと――。

 私はおそるおそる重たい鉄の扉を開けた。すると予想よりも強い風が吹き込み、押し寄せる風に髪が乱れて前が見えなくなった。


「また来たの?」


 のんきな声に鼓動が加速する。

 慌てて髪を整えると、朗らかな笑顔が目の前にあった。


「み、水樹……先生。どうしてここに?」

「いやいやいや、ここは僕の学び舎で大切な場所だって、先週言ったけど覚えてない? 久遠寺さんこそ、どうして」


 屋上から飛び降りるために来た……なんて口が裂けても言えない。

 黙っていると水樹が意地悪げな笑みを浮かべた。


「もしかして、僕に会いたくなったとか」

「んなッ、違うわよ。そんな訳ないでしょう!」


 全身で否定したけど顔が、頬が、耳まで熱い。きっと茹で蛸よりも真っ赤っかだ。恥ずかしくて死にそう。

 チラッと水樹を見たらいつもと同じように朗らかな笑みを浮かべて、形のいい目を優しくした。


「僕は久遠寺さんと話がしたかった。ここの空、気に入ってくれたなら嬉しいよ」


 水樹が天を仰ぐから、私も空を見上げる。

 薄雲で霞んでいたはずの空が、まったく違う顔をしていた。ホイップクリームのような雲を点々と広げて、その隙間からちょこんと見える水色がかわいい。


「ここの空は……嫌いじゃない。いいと思うよ」

「そうか、そうか。それならもっと楽しくしてやろう」


 水樹はいたずらを思いついた少年のようにニカッと笑った。それから四角いリュックに手を突っ込んで、次々と荷物を出していく。

 空色のレジャーシートに、アウトドア用のピクニックテーブル。


「紙コップは飛んでしまうから、これどうぞ」


 訳がわからず瞬きばかりする私に、ポイッとコップを投げてきた。慌ててキャッチしようとしたけど、ワタワタして落としてしまう。


「どうしよう、割れた?」

「あー、平気。プラスチック製だから」


 落ちたコップを軽くはたいて、水樹は側に置いた。 


「ちょうど昼休みだから飯にしよう。妹が料理好きで量が多いんだ」


 リュックから別のコップを取り出して、今度はゆっくりと手渡ししてくれた。それから小皿を並べて、箸を置いて。最後に大きなお弁当箱がふたつ、ドンと音を立てる。

 やっぱり水樹は謎な人だ。何を考えているのかさっぱりわからない。







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