第4話 変な人
「きょ、教室に戻らないと。まだ授業中だし、ここは立ち入り禁止ですよ。誰かに見つかったら大変ですよね。私のことは見なかったことにしてください。あ、そうだ! お互いなかったことにしましょう。今日のことは水に流して、綺麗さっぱり忘れるの。ふたりだけの秘密といことで。そうすれば丸く収まります。叱られることもないし、退学にもならない。一石二鳥、それでいいですよね?」
恥ずかしさを隠して、できるだけ冷静に話しかけたつもりだけど、慣れない敬語はメチャクチャ。舌を噛みそうなほど早口で、額に嫌な汗がにじんでくる。
「ここの空、綺麗だろ」
「えっと、そういうことじゃなくて……」
一刻も早くここから立ち去りたいのに、水樹は聞いてくれない。春らしい季節の風に目を細めて、気持ちよさそう。
「今日の空なら、つかめそうな気がする。まあ、つかまらないけど」
水樹は笑いながら大きな手を広すぎる空にかざした。空はどこまでも高くて遠いはずなのに、あと少しでつかめそうに見える。ここは何もない屋上だから空がとても近い。
「空なんて、久しぶりに見た気がする」
「それはもったいない」
「どうして?」
「春は空に桜が咲くだろ。夏になれば冒険心をそそる雲でいっぱいだ。秋は月明かりを楽しんで、冬は空から雪が落ちるのを眺める。日本は一年中空を楽しめるんだぞ」
「空に桜が咲くって?」
「木の下から見上げると空が真っ青な地面に見えて、そこから花が迫ってくる気がしたんだ。普通、花は地面からぐんとのびて咲くのに、空から咲く花もあるってこと。もちろん目の錯覚だけど、天を仰げば美しさが広がってるだろ。これはきっと地球からのプレゼントなんだ。地球は今日も僕に優しい」
目を輝かせて説明してくれても、私は首を傾げた。思いっきり怪訝そうな顔をしてやった。それなのに水樹はまったく気にしていない。身振り手振りで楽しそうにしゃべり続けている。
「入道雲が輝く夏の空は、様々な形の雲が心を躍らせるだろ。あの雲の向こうに何かあるんじゃないかって。薄暗い部屋にまばゆい光を届ける秋の月はとても神秘的だけど、どこか悲しげなんだ。それから冬の空はねずみ色で綺麗じゃないのに、空からこぼれ落ちるのは真っ白な雪。雪には儚い美しさがあると思わないか?」
足もとばかりを見ていた私は、どの話にもついていけない。ただ「はぁ」と気の抜けた返事をして、時々「ははは」と愛想笑いを浮かべることしかできない。
ここでようやく水樹の整った顔が曇った。
「おっかしいなぁ、空はどこまでも広くて、すべてを優しく包み込んでくれる。今日の空も素晴らしい青だ。この青空を眺めるだけでワクワクするだろ?」
「しない……かなぁ」
「んー、それは残念だ。あ、まったく関係ないけどタンポポは踏みつけるための花だったなぁ。今思えばかわいそうなことをしたけど、全部子どもの頃の話だからな。大人になってからは踏んだりしないからな」
「……そりゃ……ねぇ」
水樹はそこらにいるちょっとかっこいい男の人とは違う。羨ましいほどサラサラな髪をして、背も高い。形のいい目に鼻筋も通って、いわゆるイケメンだ。それなのに、子どものように目を輝かせてよくわからない話を一生懸命している。それが不思議すぎて変な人だと思ったら、自然と頬が緩むのを感じた。
「水樹……先生は、ここで何をしてたの?」
「今日は朝から天気がいいだろ。まだ四月だけど五月晴れだ。写真でも撮ろうと思ってここへ来たら、ガチャリと閉め出された」
「スマホを持ってるなら、誰かに連絡すればいいのに」
「痛いところを突くなぁ。連絡できる相手がいない」
「ぶはっ、何それ。水樹もボッチなんだ」
「僕のことはどうでもいいだろ。それより本当に助かった。腹も減ってきたし、このままじゃ死んでしまうと思ったよ」
――死ぬ。
その言葉に緩んでいた私の頬が再び凍りつく。
ゆっくり見回すと、足をかければ簡単に乗り越えられそうなフェンスがある。
私はこの世から消えるためにここへ来た。
水樹のペースにのせられて、危うく忘れそうだった。早くここから飛び降りないと、また苦痛に満ちた日々がはじまってしまう。
「いかなきゃ……」
ふらつく足取りでフェンスに向かった。
「おいおいおいッ、ちょっと待て!」
慌てた顔の水樹に腕をつかまれた。
「ここと、ここの赤い線よりフェンスに近づいちゃいけない。下から見えてしまう。屋上に人がいるのがバレたら、南京錠どころか、鉄の扉は二度と開かないようにされてしまう。いいか、ここと、ここの線より外に出るな」
コンクリートにペンキのような物で赤い線が引いてあった。私はチラッとそれを確認したけど、強い力で水樹の手を振り払った。
水樹は目を見開いて驚いた顔をしたが、すぐに私をつかまえる。
「ここは僕にとって大切な場所なんだ。奪わないでくれ。頼むッ!」
本当に変な先生だ。
授業をサボっている私を叱るどころか、空の話をいきなりはじめて、先生のくせに頭を下げてお願いをしている。
もし、私がこのまま飛び降りたら……。
いじめを行った陽菜たちや、いじめをなかったことにしたい平塚よりも、自殺を止められなかったすべての責任が水樹に降りかかる。
南京錠の番号はわかったし、わざわざ今すぐここで事件を起こさなくてもいい気がしてきた。
「……わかった。線から出ない」
「絶対の絶対、約束だからな。僕がここにいなくても、この線から外には出るなよ」
両手をしっかりと握り、まっすぐ私を見つめる水樹の顔は先程の朗らかな笑顔ではなく、恐ろしいほど真剣な顔つきだった。でもその顔があまりにも凜々しくて、思わず目を反らして顔を伏せた。それでも水樹は強引に小指を絡めてくる。
「ゆーび切り拳万、ウソついたら……。うーん、そうだなぁ、何がいいかな? 僕の命令を何でも聞く。これでOK。はい指、切った」
「はあ?」
指切り拳万と言えば『ウソをついたら針千本飲ます』なのに、命令? 何でも聞く?
大人の男が女子高校生に?
無茶苦茶な指切りに慌てて顔を上げた。
「そんなに慌てなくても大丈夫。ウソをつかなきゃいいんだよ。久遠寺さん」
水樹は悔しいほど爽やかな笑顔を見せて、軽くウィンクした。
私の目の前には晴れ渡る青い空と、屋上に閉じ込められていた訳のわからない先生がいる。暗く沈んだ心に真新しい風がすっと通り抜けるような、とても不思議な感じがした。
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