第3話 水樹奏人
そういえば、いじめがエスカレートしてきても、学校をやめるという選択肢は思い浮かばなかった。高校中退という言葉にビビっている。
薄い銀色の光を放つ包丁を眺めながら、犯罪でも起こして父のつまらない名誉をぶち壊すことも考えた。でも首を振る。怒りでカッとなる性格だけど、人を刺す勇気はない。担任のくせにいじめを見て見ぬ振りをした平塚も大嫌いだ。
「どうすればいい?」
ひとりっきりの部屋で思いついたのが、学校で自らの命を絶つこと。
県内トップレベルの進学校でいじめがあることを知らしめて、有名俳優の娘が自殺するというショッキングな事件を起こす。これらはすべて、マスコミが喜んで飛びつきそうなネタだ。同時に私も、つまらないこの世からさようなら。今以上の苦しみはもう訪れない。
一石二鳥、いや、三鳥にも四鳥にもなりそうで、その日はどうしても死にたくなった。だからダイヤル式の南京錠から手が離れない。
ひとつ、ひとつと番号を合わせてみる。ダイヤルが小さくて堅いから、すぐに指が痛くなった。それでも手は止めない。私は決めたのだ。
「絶対に開けてやる」
ふうっと肩で息をして、少しクセのある髪をかきあげた。
鍵はなかなか外れない。
鉄の扉は冷たく私を見下ろして、一向に開こうとしない。一時間目が終わり、二時間目も。さらに時間が進んでも四桁の番号にたどり着けなかった。
「今日もダメなの?」
うまくいかない腹立たしさを感じながら、ふと教室に戻ることを考えた。今は英語の時間。きっと平塚が偉そうな顔で遅刻した理由を聞いてくる。その姿を思い浮かべただけで、悔しさが胸を突き破りそうだった。
「どうせ死ぬんだ。いまさら授業なんて関係ないッ」
鍵は五千番台を超えても外れない。
とうとう焦りと苛立ちがピークに達して、目の前に立ちはだかる鉄の扉を思いっきり蹴り飛ばした。
でも鉄の扉は大きな音を立てただけ。足の裏がジンジンと痛い。
「バカみたい……」
目から大粒の涙がこぼれ落ちると、次から次へとこぼれ落ちて止まらなくなった。
「どうして何ひとつ自分の思い通りにならないの?」
幸せに包まれた家族もいない。
友だちもいない。
いつだって私はひとり。
中学ではトップレベルにいたのに、ここではもう勉強にもついていけない。
目の前の扉ですら、私を拒む。
扉を、扉を開けたい。
早く死にたいのに……。
張り裂けそうな胸を押さえながらその場に崩れ落ちた。
声が洩れないように唇を噛んで、手足をギュッと体の中心に寄せた。声の限り泣き叫びたい衝動を抑えるために、私を拒絶する鉄の扉にドンッと頭をぶつけた。いつまでたっても変わらない世界を恨めしく呪いながら。
「……そこに、誰かいるのか?」
不意に声がふってきた。
その声はぶっきら棒でもない。愛嬌たっぷりのチャラい声でもない。注意深く何かを尋ねるような大人の声。心臓が大きく跳ね上がると、手足から血の気が引いていく。顔がみるみる
ここで誰かに見つかったら停学。いや、【関係者以外立ち入り禁止】の立て札を無視して授業をサボっているから、退学になる可能性だってある。もし退学になってしまったら『久遠寺公康の娘が自殺。進学校での壮絶ないじめを担任は見て見ぬ振り』という計画が消えてしまう。
そんなことを考えながら隠れる場所を探したけど、ここには鉄の扉しかない。カバンを抱きしめて顔を隠した。
(どうしよう……、誰か来る。どうしよう……)
階段を上って来るのは誰?
入学した頃から屋上への立ち入りは禁止されていた。これから起こり得る最悪な事態に涙は止まってくれたけど、鼓動がどんどん早くなって、血の気を失っていく。
落ち着けと言い聞かせて息を飲み込んだ。
この場でできることは、たったひとつ。顔を隠してどこまでも逃げる。慌てて階段を踏み外さない限り大丈夫。走りには自信がある。
私は身を屈めて唇を固く結んだのに。
「おぅーい。そこに誰かいるなら、助けてくれぇ」
ドンドンと鉄の扉をたたく音と共に、弱々しく頼りない男の声がする。そうっと鉄の扉に手を当てると、振動が伝わってきた。
「屋上にいたら、鍵、閉められて……。八二七四だ。そこに誰かいるなら鍵を開けてくれぇー。頼むよぅ」
やはり鉄の扉の向こう側に誰かいる。警戒したけど、屋上から聞こえてくるのは情けない声。言われるままに番号を合わせると、カチリッと小さな音を立てて呆気なく鍵が外れた。
力を込めて鉄の扉を開けると、何者かがふわりと抱きついてきた。
「助かったぁー。ありがとう、本当にありがとう」
大きな体に優しく包み込まれた。
突然すぎて驚いたけど、暖かい春の日差しとなつかしい日なたの香りがした。
「あっ、ごめん。ごめんね。あれ? 授業は?」
男はパッと離れて、不思議そうに私を見回している。
「…………」
私は顔を強張らせたまま、何も答えられない。
目の前にいる男は、緩めたネクタイに着崩したワイシャツ姿だが、学校関係者用のネームタグをぶら下げていた。
「へぇ、この学校でサボりとは、いい度胸だな。僕は数学科の
事務や用務の職員ならでまかせを並べて何とか誤魔化そうと考えたのに、数学科の先生。やはりここは逃げるしかない。
駆け出そうとした瞬間、水樹奏人と名乗る先生は私の手首をつかんだ。
「痛い、離してッ」
「まあそう言わずに。助けてくれたお礼がしたい」
「はあ?」
水樹は私を屋上へと連れ出した。
暗く冷たい場所から、まぶしい光の下へと引っ張られる。
「ちょっと、離してよ」
鉄の扉をくぐり、冷たい風が通り抜けたかと思うと強すぎる日差しが目に突き刺さった。思わず目と口をギュッと閉じた。
「ようこそ、僕の学び舎へ」
おそるおそる目を開けると、水樹が両手を広げている。その後ろには、雲ひとつない抜けるような青空がどこまでも果てしなく続いて、青がすべてを吸い込んでしまいそうだった。
「ここの空、綺麗だろ?」
その声はしっかりと耳に届いている。だけど私はうなずくことも忘れて、青いガラスのように輝く雄大な空に圧倒されていた。
「……すごい」
青すぎる空の色に、その言葉しか出て来ない。それと同時に、いつもうつむいていたことを思い出す。
私は瞬きをして空を見るのをやめた。
視線が下がると、汚れたままの靴下が真っ先に目に入る。陽菜たちの深いな笑い声が聞こえてくるようだった。
「手首、痛かった? ごめんね」
うつむくと、にこやかな笑顔がフッと目の前に現れた。
私が知っている数学の先生は、白髪のおじいちゃんばかり。水樹はどう見ても二十代。小さな顔の上に形のいい目と鼻が並んで、最高の形を作っている。柔らかい風に揺れている前髪は羨ましいほどサラサラで、すっきりしていた。そして何より、まぶしい。日差しが強いせいかもしれないけど、水樹の周りだけが白く輝いているように見えた。
私の心臓がトクンと別の音を立てている。戸惑いや恐怖を忘れて、どこか暖かい音。
「大丈夫、痛くない……です」
「それはよかった。うん、よかった」
水樹は満足そうに顔をほころばせて、大きく背伸びをした。
天高く突き上げたあの手で、さっき抱きしめられたこと。手首をつかまれたこと。今、屋上にはふたりしかいないこと。あれこれ考えはじめると急に恥ずかしさが込み上げてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます