第2話 いじめ
陽菜はパッチリとした目をさらに大きく見開いてから、ゆっくりと顔が赤く染まっていく。必死に口をパクパクさせて怒りの表情を見せたけど、すぐに「ふんッ」と顔を背けていってしまった。
久遠寺公康の娘だとバレないようにしよう。どこにでもいるような普通の女子高生として楽しい生活を送るはずだったのに、初日から失敗してしまった。
それからは中学生の頃と同じ。クラスでも完全に浮いてしまう。
話しかけてもよそよそしい雰囲気で避けられて、そのうち挨拶をしても無視されるようになった。
無視をされると心臓をギュウッと握りつぶされているかのように痛いけど、自分でまいた種だから我慢した。
「ほら、あいつ。久遠寺公康の娘だからって、いい気になってる」
「一般人とは口も聞きたくないんだって」
「えー、何様のつもり?」
そんなこと一言も言ってないのに、陽菜たちが睨みつけてくる。誤解を解きたくても、父のことを説明するのが死ぬほど嫌だ。陰口をたたかれるのは悲しいけど、黙って本を読むことにした。でも次の日、上靴がなくなった。
教科書が破られたり、持ち物が廊下に放り出されたり、悪質な出来事が続く。それでも平気な振りをしていたけど、階段から突き落とされそうになった。
さすがの私も身の危険を感じて陽菜たちに詰め寄ったけど、「私が背中を押したって、証拠があるの?」とゲラゲラ笑うだけ。一歩間違えれば大ケガをしていたかもしれないのに、信じられない。
はじめて恐怖を抱いた私は放課後、担任の
平塚先生は入学式のとき、電報に群がる人々を大声で蹴散らして、仁王立ちになりながら保護者も威嚇した人。とても厳しくて怖い先生だけど、まだ二十代。恋人募集中というお茶目な面もある。古くさいオバさん先生と違って話しやすかった。
「入学式の日に、紺野さんとトラブルになって――」
長い話でもよく聞いてくれた。それなのに、陽菜たちから事情を聞くようになると平塚先生の態度が一変した。
「紺野は成績優秀だし、いじめをする生徒には見えないなぁ。ちゃんと鍵をかけたのか?」
「当たり前でしょう。それでも鍵を壊して」
「そんな簡単に壊れる方も問題だろ。紺野が壊すところを見たのか?」
見ていないから口をつぐんだ。でも、陽菜以外に考えられない。どうしてわかってくれないのか。悔しくてやり場のない怒りが込み上げてくる。
「まあ、双方に問題があるようだからよく考えろ。はじめに紺野を否定したのは久遠寺だ」
「私は何もしてません」
「紺野の母親が久遠寺公康の大ファンなのに、バカにしたんだろ? まずはそれを謝ってみろ。そうすれば紺野だって」
「絶対に嫌ですッ!」
ガタンと椅子が鋭い音を立てた。私は机に手をついて立ちあがっていた。きょとんとした顔の平塚がまた何か語りかけてきたけど、耐えがたい怒りのせいで聞こえなかった。
平塚は当てにならない。私はすべてに失望した。
それでも最悪すぎる一年間を我慢して、二年生になった。
新しいクラスがどうなるのか。発表の瞬間まで陽菜に見つからないように隠れて、クラス分けの名前が張り出されるとダッシュで駆け寄った。
「……ない」
私のクラスに陽菜はいない。クラスが離れた。
これで嫌がらせがなくなる。うまくいけば新しい友だちができるかもしれない。歓声や悲鳴が飛び交う中で小さくガッツポーズをしたのに、状況は何ひとつ変わらなかった。
体操服はゴミ箱へ。教科書はノリでベタベタ。提出したはずのノートが盗まれる。
「なーにーが個性を尊重して、可能性を最大限に開花させる。社会の発展に寄与する生徒の育成を目指す学校よ。ふざけんなッ!」
喜びが大きかっただけに、悲しみも一際大きくなってしまった。
憧れて、希望に胸をふくらませて、ようやく勝ち取った合格だったのに、陽菜のせいでメチャクチャだ。
パズルを解くように楽しみながらしていた勉強も、わからない言葉や意味不明な数式が増えてきた。ご立派な教育理念通りの進学校なので、毎日の小テストや早すぎる授業についていくのがやっと。家に帰っても家事が残っている。
「どうして?」
憧れの高校に通って、ひとり暮らしをする。
すべて私が望んだことなのに、現実はバラ色ではなかった。
追いつけない授業にもがき苦しみ、心を傷つけ、希望をも踏み潰す行為が毎日のように続く。
そして今日も上靴がない。呆然と立ち尽くしていると、耳障りな笑い声が近づいてきた。
「ユイ、邪魔よッ」
高圧的な声と共に、陽菜が私の背中を強く押してきた。その力があまりにも強くて、激しく靴箱にぶつかった。電気のような痛みが走っても、体が石のように硬直し動かない。
「ちょっと
「えー、
陽菜の威圧的な態度と視線に逆らえる人はいない。
私からサッと目を反らして、「別に……そんな」と口ごもるだけ。
「だよねー。あいつキモイし」
ゲラゲラ笑う声が鼓膜をゆらすと、苦くて熱い胃液が込み上げてきた。
(早くどこかにいって。お願いだから私にかまわないで)
こうなると、ただひたすら下を向いて陽菜がいなくなるのを待つしかない。
耳にこびりつく不快な笑い声が聞こえなくなると、全身から汗が噴き出して、息が乱れた。いつの間にか陽菜が近くにいると、正常な呼吸ができなくなる。手が小刻みに震えて、止めたくても止まらない。体が陽菜を怖がっていた。
「もう限界……」
誰もいなくなってから弱々しい声だけがこぼれた。
それでも大きく深呼吸をしてから再び歩きはじめたけど、授業開始を知らせるチャイムが広く鳴り響いた。
急がないと遅刻する。
頭の中は焦っているのに走れない。冷たすぎる廊下を靴下のまま、ぼうっと歩いている。濃紺色のスクールソックスは、少し歩いただけで汚れだらけに。指の節が真っ白になるほど強く、拳を握りしめた。
「先生も生徒も汚い。あいつも汚すぎる。言いたいことがあるならハッキリと言えばいいのに。私のことが気に入らないなら、無視すればいいのに。上靴を隠したり、教科書をダメにしたりバカみたい」
やり場のない怒りを抱えたまま、新しい上靴を買いにいった。すると、さらに汚いゴミでいっぱいになったゴミ箱に、上靴が捨ててある。おそるおそる手をのばして拾い上げると『久遠寺ユイ』と書かれていた。
「私の……。もう、嫌だ!」
涙が出るのをこらえて早足で階段を上がった。
二年生の教室は二階だが、三階まで上がり、さらに屋上へと続く階段に足をかける。【関係者以外立ち入り禁止】の立て札を無視して行きつく先は、ダイヤル式の南京錠がかけられている大きな鉄の扉。
生徒の立ち入りが見つかったら間違いなく停学か退学になる場所。それでも足は止まらない。
いじめが酷くなった頃から、この鉄の扉をくぐって屋上から飛び降りると決めていた。遺書だって書いてある。
学校にも家にも居場所がないから、あの世にいこう。
生きていても仕方ない。
遺書を読んで、私を死に追いやったすべての人間が不幸になればいい。
怒り、悲しみ、憎しみを込めて南京錠のダイヤルを回す。
「二七九三、……九四、……九五、九六……。今日もダメなの?」
生きているのが辛くて、死にたくなったらここへ来た。一から順番に数字を合わせている。鍵が開く四桁の数字がわかれば、煩わしいすべての事柄から解放される。
私は死ぬことによって新しい何かがはじまると、強く信じていた。
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