久遠寺ユイ
第1話 俳優の娘
すべてが息苦しくて窮屈に感じたのは中学生の頃。古くなったランドセルを脱ぎ捨てて、真新しい学生服に袖を通したときからだった。
幼い子どもから卒業したのに、親も先生も大人扱いしてくれない。行動範囲もぐんと広がって、考え方も小学生とはまったく違うってことを理解してくれない。それどころか、素朴な疑問や質問はすべて生意気な態度として処理された。
くせ毛なのに華美な髪型は禁止だって? ふざけるな。スカートの丈が短いから長くしたのに長すぎるって、どういうこと?
はあー、イライラする。
ひとつでも愚痴をこぼしたら止まらなくなる気がして、中学生の私はずっと本を読んでいた。
集中すればするほど、周りの雑音が聞こえなくなるし、胃が痛くなるような苛立ちに悩むこともない。それが心地良くて休み時間も本を読んでいたら、クラスでひとりぼっちになっていた。同時にいつの間にか友だちの数で優越が決まっていて、友だちのいない私は腫れ物扱い。それでも本が読めればいい、と強がった。
寂しいとか惨めだという気持ちがあふれ出す休み時間は図書室にこもり、ひたすら文字を追いかける。そのような日々の中で、ひとつの目標が芽生えた。
県内トップの私立高校に入学して、家を出る。
陰口ばかりたたくクラスメイトや、夫婦喧嘩の絶えない両親からも逃げる。
とにかく新しい自分をスタートさせるために、私を知らない人がたくさんいる高校へいきたいと願った。
きっと未来は明るく変化する。
頑張れば、頑張った分だけ必ず報われる。
そう信じ続けて合格を手にしたけど、私はいつまでたっても私だった。
劇的な変化は訪れない。それどころか、父のせいで入学式からつまずいた。いよいよはじまる高校生活に胸が高鳴っていたのに――。
「ほら、あの子」
あの人混みを避けて教室にいきたいと願っても、今日は入学式。まだ校舎のことをよく知らないから、別の道がわからない。
「いくしかないか」
ため息と共につぶやいて、重い足を前に出した。
近づけば近づくほど騒々しくなるから、私は顔を上げられなくなった。
「すみません、通してください」
か細い声を出しながら人混みをかき分けると、生徒よりも保護者の方が騒ぎ立てているので、チラチラ見られる原因がわかった。「うっとうしい」という言葉が口からこぼれそうになったとき、可憐な花びらをたくさんつけた胡蝶蘭を目にした。
華やかで凜とした胡蝶蘭は、人混みから逃げようとする私とは正反対の姿で嫌みなほど輝いている。その輝きにも負けない立て札には、
高校入学を祝う電報にも父の名前があった。
『ご入学おめでとうございます。これからもますます勉強に運動に励まれますよう応援いたしております。 久遠寺公康』
私は下唇を噛んだ。
よく見ると廊下にずらりと並んだ胡蝶蘭には、見覚えのある事務所や劇団員の名前が連なっている。父は舞台でもテレビでも活躍している俳優だ。劇団を運営して、若手の育成にも力を入れている。
たまに帰ってきたと思ったら、母と激しい言い争いをはじめて、何もできない私はいつも耳をふさぎ、ふとんの中で声を殺して泣いていた。
夫婦喧嘩の嵐が過ぎ去ると、父は家にいない。こうなると父の様子を知るのはテレビや雑誌の記事のみで、母はますます塞ぎ込んでいく。やがてマスコミや心無い父のファンに追い回されて、母は壊れてしまった。誰もいないのに「見張られている」と言い出して、そよ風に揺らぐカーテンでさえ敵に見えているようだった。
「なんで今頃……」
声が震えた。
入学試験の一ヶ月前に、親権問題が片付いたとかで父と母は離婚した。私の考えや胸の内を尋ねることもなく、勝手に決まった。それだけでも許せないのに、親権は経済力のある父へ。
父とはまともに会話した記憶も、家族らしい思い出もない。でも、心と体を壊した母は私につらく当たるだけだったから、少しホッとした。
母との生活が酷すぎて、心配してくれた。だから親権を――。そう考えると嬉しくて、父に会いたいと言った。時々様子を見に来てくれるおばあちゃんも『親は子を愛しているんだよ』と言っていたから、会えると信じたのに現実はさらに酷かった。
芸能界で生きる父はイメージが大事。『子どもを捨てた父親』というレッテルを張られたくないだけで、一緒に暮らすつもりはない。母は愛した男とのつながりを失いたくない一心で、親権を主張していただけだった。
どこにも『私』そのものがない。
闇の中へ転げ落ちた気分だった。
父に捨てられた母は完全におかしくなり、私のことを「裏切り者」とか「いらない子」「役立たず」と罵り続けて、今はおばあちゃんの家で療養している。
そんなお荷物の娘でもトップレベルの高校に入学したと聞いて、自慢したくなったのだろうか?
何もかも自分勝手に捨ててきたくせに、いまさら電報を送って父親面をするのが許せなかった。
目の前の電報を引きちぎってやろうと手をのばしたとき。
「おい、そこの一年生。止まってないで早く教室に入れッ!」
甲高い声が雷鳴のように轟いた。パステルカラーのスーツを着た先生が、仁王立ちになり、睨みをきかせている。かわいらしいコサージュをつけているのに、怖い。人混みがあっという間に消えていった。
私も慌ててその場を去ったけど、父のせいで新しいスタートに泥を塗られた。苛立ちを隠しきれないまま教室に入ると、さらに悪いことが続く。
「久遠寺さんって、あの久遠寺公康の娘なの?」
スラリと背が高くて、毛先をふわりとカールさせたセミロングのかわいい子が声をかけてきた。パッチリとした大きな目で私を見つめている。
私は久遠寺公康の娘だけど、あれを父だと言いたくない。かと言って無視する訳にもいかない。
返答に困っていると。
「あーごめん、ごめん。私は
「……ユイです。よろしく」
「ユイってカタカナなの? 珍しいね。私は歌もダンスも得意な陽菜。本当は
愛想のいい笑顔で子どもの頃から舞台俳優を目指していることや、陽菜の母が久遠寺公康の大ファンだとか話してくる。一番聞きたくない父の話ばかりで本当に気分が悪くなった。でもここで陽菜の機嫌を損ねたら、ひとりぼっちで浮いていた中学生の頃と何も変わらない。我慢しようと机の下で拳をギュッと握りしめた。
陽菜は珍しい物を見つけてはしゃぐ子どもみたいに見えた。あまりの無邪気さに、私の胸は押しつぶされていく。
――俳優、久遠寺公康の娘。
物心がつく頃から好奇な目で見られることが多くて、陽菜のような人には慣れないといけない。いくらそう言い聞かせても、父目当てで近づいてくる人にはうんざりする。
メディアの中では笑顔の父でも、家に帰れば母と怒鳴りあう醜い姿しか知らない。みんなが知っている父と、私の中にある父が違いすぎて
だからこの学校を選んだ。
久遠寺公康の娘という目で見られたくないから、私のことを知らない人がたくさんいるこの場所を選んだ。それなのに――。
「ごめんね、紺野さん」
「やだなぁ、陽菜って呼んでよ」
「私、大嫌いなの」
「えっ、何が?」
「久遠寺公康の話。するのも聞くのもうたくさん」
ハッキリ言ってしまった。
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