(9) 望 —— Nozomi ——

 わたしはいったい何をしているんだろう。


 気づいて欲しくなくて、彼をやり過ごすために顔を隠して立ち読みのふりをしていたのに——。


 商店街を行き来する人たちの姿は本屋さんの硝子に映っていたので、雑誌を見ているふりをしながらでも確認することができた。


 なのに、もうそろそろかと思っても彼の姿は映らなかった。もう少しかと思って待ってみても、彼は通らない。


——これはおかしい。


 そう思って、そうっと彼が来ていた方に目をやると、そこに彼の姿はなかった。


 見逃したはずはない。そう思いながら、反対側に目を向けた。


 商店街の先、さっき買い物をした八百屋さんの少し向こうに、彼らしきうしろ姿があった。


——なんで?

  いつの間に?

  ずっと見てたのに。

  人通りも多いわけじゃないし、見逃すはずがないのに。


 でも、あのうしろ姿は間違いなく彼だ。


 緊張のあまりいつものポテンシャルが発揮できないということはある。


 自分ではずっと観察していたつもりでも、見えていない部分があったのだろう。


 そんな分析をしていると、彼は角を曲がって姿を消した。

 

——よし。


 今の姿を見られたくないのだから帰ってしまえばいいのに、わたしは彼の後を追わずにはいられなかった。 


 自分の感情が分からなくなっていた。


 商店街を急ぎ足で進み、八百屋さんとその向こうの魚屋さんを通り過ぎたところで角を曲がった。


——いた。


 彼だ。


 でも、走ってはいない。疲れてウォーキングに切り替えたのかも。だとしたら、あとを追うには好都合だ。


 そう思ったとたん、彼が再び走り始めた。


 そしてまた角を曲がった。


——駄目。

  そっちに行っちゃ駄目。


 今度は何故かそんな感情が込み上げてきた。どうして駄目なのか分からないままに、ただそっちに行ってはいけないという感情が湧き上がる。


 行くと良くないことが起こる——それを知っている——そんな気がする。


——止めなくちゃ。

  彼を止めなくちゃ。

  彼を行かせてはいけない。


 玉葱の入った袋を揺らしながら走った。

 

——見失うわけにはいかないんだ。


 でも、彼の方が早い。

 

——急がなくちゃ。


 彼はまた角を曲がり、どんどん行って欲しくない方へと進んでしまう。

 

——なんで?

  どうしてそっちに行こうとするの?

  

——ごめんなさい。

  わたしが悪いの。わたしがスーパーじゃなくて商店街に来ちゃったから。

  今日だって、商店街に来ちゃいけなかかったのに。また繰り返して——わたしのせいだ。


——駄目。

  そっちに行っちゃ駄目だってば。


——お願いだから、行かないで。


 西の空が赤みを帯び始めていた。


 東から西に向けて、青い空。白い雲。そこに黄色や赤や灰色が混じった複雑で繊細なグラデーションを描き始めている。


 サンダルが脱げそうになってつまずいた。


 スニーカーを履いて来るべきだったと、後悔が増えた。


 また彼を見失った。


 でも、もう迷わなかった。


 彼が向かっている先を、彼が行こうとしている場所を、わたしは知っている——。


 最後の角を曲がったとき、道の先に小さな女の子がしゃがんみこんでいるのが見えた。


 その子から目が離せなくなって、わたしは足を緩めた。


 女の子のそばで足を止める。


 この子の名前を知っている——。


——そう。たしか——美咲ちゃんだ。


 彼女は、ただしゃがみ込んでいたのではなかった。


 美咲ちゃんの前には彼女の名前の通り、きれいな花が咲いていた——ううん、そうじゃない。きれいに咲いた花が、たくさん供えられていた。


 次の瞬間、わたしの周りを濁流のごとく、物凄い勢いで時間が流れ始めた。

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