(8) 希 —— Nozomu ——
公園の遊歩道が終わる中学校の手前で舵を切り、商店街の方向へと足を向けた。
そんなことは初めてだったけど、ふと本屋にでも寄ってみようかと思ったんだ。
いや——。
前にも同じように本屋へ向かったことがあったかもしれない。そんなことはどうでもいい。記憶が曖昧になっても当たり前の些末なことだ。
走るペースは落ちていた。小学生の頃から短距離走は得意だったけれど、長距離は苦手だ。瞬発力はあっても持久力はない。テニス部の試合でも成績はまずまずながら、長期化したゲームでは圧倒的に分が悪い。それでも自分としては中学時代に比べて随分と鍛えられた方なんだ。ただ周りのやつらも同じように伸び代を持っていたらしく、スタート時点でついていた差はさほど縮まらなかったのだけれど。
いつも以上に疲れを感じるのは、生活のリズムが乱れているせいもあるだろう。単に夜型にシフトしたとか、昼夜逆転したというのではない。昼夜問わずとか、昼夜関係なくと表現するべき状態だ。晩ごはんだぞと起こしに来られても、そのまま寝ていることも多かった。そんなときは夜中になってから、一人で冷めたおかずをチンして食べる。
いや、あれは昨夜ではなかったか……。もう少し前のことだったかもしれない。
そういった時間の経過すらも曖昧だ。
もうすぐ窓の外が白々として来そうな時間になって、お腹が空いて目が覚めた。
鍋の蓋を取るとカレーだったので、温め直しながら、ふと思い出してスマホでラジオのアプリを立ち上げた。
流れていたジャズらしき静かな音楽がフェイドアウトして、女性の声に入れ替わった。
受験勉強をしながら深夜ラジオを聴くことはあったものの、たいていはAM放送でお笑い芸人やアーティストが賑やかに喋っている番組だった。
この番組を耳にしたのはたまたまだ。
ゲームにも飽き、動画やSNSを見ても長続きせず、半ばイライラしながらラジオのアプリを立ち上げて、聴いたことのないFM放送の番組を選択してみた。
はっきりと憶えてはいないけれど、そのときも彼女のことを考えていたのかもしれない。
「あなたは今も、」という番組名に惹かれたのかもしれない。
ハナエという名の女性DJは、検索をしてもほとんど情報が出て来ない。番組のホームページにも名前の記載があるだけで写真もない。女性にしては低めのしっとりとした声で、その声に
彼女のことを相談してみたらどんな答えが返ってくるだろうかと、少し興味が湧いた。姉がいたら、こんな感覚だろうかと思ったりもした。世の弟は実の姉に恋愛相談などするものなのか想像もつかないけれど、なんとなく雰囲気に吸い込まれるように勢いに任せてメールを送ったら、あろうことか採用されてしまった。
僕のメールを読み終えたあと、電波の向こうの彼女は言った。
——もし、その子が、あなたにとって本当に特別な存在なのだとしたら、このままじゃ終わらないんじゃないかなって思う。あなたが終わらせようとしても、ね。何気休め言ってんだって思ったでしょ? でも、案外っていうか、わたし、けっこう本気で言ってるんだよ。それは……、これはまだ誰にも話したことはないんだけれど、私自身が、少し前に思いがけない再会を果たしたことがあるから、そう思うの。
そして、弟が欲しかったかもと笑い、最後に、いい男になれよと姉のように締めてくれた。
彼女——ハナエが、どんな経験をしたのか。彼女は具体的なことを何も語りはしなかったけれど、終わらせようとしても終わらない特別な存在なんてものが本当にあるのだろうか。彼女が僕にとってそんな特別な存在であってくれたら、どんなに嬉しいだろうとは思いつつも、そのときの僕にはそんな存在は家族くらいしか思いつかなかった。
思いがけない再会だって、なかなか無いからこそ「思いがけない」のであって、同じようなことがそうそう起こるとも思えない。ラジオDJの彼女も結局はその場限りのいい加減な思いつきをそれらしく語っているだけではないのか。
そんな否定的な感情も抱きながら、どこかでその言葉にしがみつこうともしている歪んだ自分——。
商店街まであと少しというところで、頭の中を何かが走った。
——何だ?
足を止めて空を見上げると、またさっきと同じように吸い込まれそうな感覚に襲われた。
中学の制服姿の彼女。
手首に巻いてくれた包帯。
高校でセーラー服姿になった彼女。
テニス部の試合のとき、応援席に見つけた彼女の笑顔。
体育祭で走る彼女。
文化祭でうたう彼女。
雑誌の立ち読みをする彼女。
遊歩道の葉桜の下を楽し気に歩く彼女。
マスクを外した彼女の笑顔——。
自転車で追い抜いて行った中学生。
その中学生を跳ね飛ばしたトラック——。
トラック……。
フラッシュバックした光景を振り払う。
視線を落とすと、足元にはいくつもの花——。
それを見たとき、僕は全てを悟った。
そして、彼女をこのままにはしておけないと——、今のままの彼女を残して行くわけにはいかないと、そう思ってまた走り始めた。
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