第38話 久しぶりのお店で。



色々あったせい、たかが中一日ぶりなのに、「蔵前処」に行くのが随分久しぶりのように思えた。


駅からお店までの数分の道、コンクリート打ちっぱなしの地下へと続く階段。もうお馴染みになった景色が、少し特別に思える。


それは、最初にお店に来たときの感覚に似ていた。なにかが起こるような予感だ。あの時はそうして駒形さんに見惚れて、店に入って──


「……寅次郎のやつ、ホールの片付け忘れていったみたいだな」


最初の時とは違う、乱れた店内がそこにはあった。

机の位置は正規の位置から随分ズレているし、床には食べこぼしも。モップと雑巾がロッカーから出されているあたり、やろうとして、そのまま忘れてしまったのだろう。今野さんならやりかねない。


「私、掃除しますよ。その間に、玉子焼き作っててください」

「いいの? ごめん。給料は」

「これくらいじゃ、いりませんよ。その代わり、美味しいの期待してます」


私は率先してモップを手にする。なにもしないでご飯だけを食べさせてもらうのは、気が引けると思っていたところだった。


「そういうことなら任せた。……あ、あともう一つだけお願いがある」

「まだどこか掃除する場所が?」

「いや、そうじゃない。玉子焼き、できるまで絶対にキッチンの方は見ないで」


なんだか鶴の恩返しみたいな台詞を残して、駒形さんは鼻歌交じりにカウンター奥へと下がっていく。


変なの。違和感は覚えつつも、私は障子を開けてしまうおばあさんではないので、淡々と掃除をすることにした。


だが、一つ五感を制限すると、今度は他のところが普段になく敏感になる。耳が捉えたのは、熱い鉄板に油が跳ねる音。鼻が吸い込んだのは、香り高いカツオ出汁の香り、別の魚介も混ざっているかもしれない。


思えば、関西風の玉子焼きもしばらくぶりだ。すぐ後に食べられるかと思うと、味覚までが刺激されて、唾液が滲み出てきた。


玉子焼きならすぐにできてしまう。急がなければ。食欲に動かされて、私はピッチをあげた。


片し終わったのは、駒形さんが料理を完成させたのとほぼ同時だった。だが、すぐには料理を出してくれない。


「結構急いだんじゃない? そんなに食べたかった?」

「……もう、言わないでいいんです、そういうことは。それより、できてるなら冷めないうちに食べましょう」

「そうだね、冷めたらもったいない。どうぞ」


入れ物の時点で玉子焼きではないと分かるお椀が、ことりとテーブルに置かれる。淵から湯気をくゆらせるのは、三つ葉の乗ったすまし汁だった。


「もしかして、分かったんですか」


瞬間、口をついて出る。

もしかしなくてもこれは、玉子焼きは玉子焼きでも、私のより好きな方のそれ。


「うん。これでしょ、汐見さんの食べたかった玉子焼き」


つまりは、明石焼きだった。

あとから置かれた平皿には丸くしっとりとした、薄黄色の玉が盛られている。


「どうして知ってるんですか。……まさか下調べ?」

「ははっ、俺は彼みたいなことはしないよ。明石焼きは、俺も好きなんだ。地元の人は、これを「玉子焼き」って呼んでるんだよね。いわゆる玉子焼きは、そもそも関西圏の人は「だし巻き」って呼ぶ方が多い。この料理は、地元の人とそれ以外の人が作るのでは、味がかなり違う料理だよね。卵をたっぷり使うのが、その差かな」


さすが駒形さん、話が分かる。好物が同じ、こんなに嬉しいことはない。元カレにそれが原因で騙されていたと分かったばかりなのに、私はかなり単純なのかもしれない。


「そう、そうなんです! タコ焼きとは全然違うのに、みんな分かってくれなくて。タコ焼きを出汁に入れたら一緒、とか言うんですよ。それに──」

「ほら、熱弁してたらこっちが冷めるよ」


おっと、と私はつい回ってしまった舌を引っ込める。好きが高じるあまり、せっかくの好物を無駄にしてしまうところだった。それでは、本末転倒というものだ。

いただきます、と手を合わせる。どうぞと微笑む駒形さんに見られながら、私は黄金色の一粒を、スープに浸してからレンゲごと口へ運ぶ。


風味豊かなカツオだしと、卵の濃厚さが掛け合わさって、いっぺんに舌を旨みで包んだ。それだけではない。


「…………これ、卵だけじゃなくて、タコの味がしっかりします」

「よく分かるな。ちょっとだけアレンジをしたんだ。タコをプロセッサーでみじんにして、生地に混ぜたんだよ。邪道だった?」

「ううん、それどころか今までで一番美味しいかも」


他所で食べると飾りになりがちなタコが、しっかりと存在感を示していた。荒く潰したからだろう、コリっとした食感も、とても面白い。


伝統的な味が崩れているわけではなく、昇華されていた。その新しさは、玉子焼きにべったり結びついていた元カレとの記憶を引きはがして、鮮やかに思い出ごと塗りかえてくれるかのようだった。


私は止まらなくなって、最後の一つまでほとんど休むことなく頬張ってしまった。油が少なくさっぱりしていて、胃がもたれないのだ。


「ごちそうさまです! これなら、いくらでも食べられそうです!」

「じゃあ、もう一回焼こうか? 次は俺も食べようかな」

「いいんですか。お願いします!」


あと二十個はいけてしまう。皮算用をしながらカウンターから上半身を乗り出した私に、


「でも、その前にそろそろお話しようか。食べるために来たわけじゃないしね。それと危ないよ」


駒形さんは奥で身を仰け反らしていた。

そうだった。あまりの美味しさに、あやうく大事なことが飛んでしまうところだった。





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