第37話 ヒーローは突然に。
「久しぶりだな、会いたかった」
一月以上ぶりのご対面だった。元恋人で、現在の天敵。
「どういうつもりだったんだ、急に出ていって」
一見、好青年かのような柔和な表情で、彼はにじり寄ってくる。
これに私は騙され続けていた。だがもう、薄ら寒いとしか思えない。そのすぐ一枚下に、邪悪なものが潜んでいるのは分かっている。
「なぁ祥子、俺は本当にお前が心配でしょうがなかったんだぞ。……なにかしたなら、謝るよ。だから、俺たちやり直せないかな。もう一度二人で楽しくさ」
偽物、紛いものの優しさが振りかざされる。彼は、ほとんどそれしか持っていない。
ほんの一か月前まで私は、それで十分、私の身の丈で得られるものなんてそれくらいだ、そう思っていた。でも今は、
「……もう限界だったの、あんな生活」
今の私には、みんなが、駒形さんがくれた勇気がある。
「私は、もう英人と一緒にいる気はない! しつこくしないで!」
嫌いだ、この浮気者。そこまで私は思い切って叫んでやった。全力の拒否だ。
これでもう彼に関わるのは終わり。さぁ早く駒形さんのところへ、と私は彼の隣をすり抜けていこうととする。だが、
「そういう態度取るなら、力ずくでも止めてやるっての」
スーツの後ろ襟を掴まれてしまった。
強い力で引っ張られ、首が締まる。左右で靴底の高さが異なることもあって、私は足がおぼつかずにこけた。
あざけるように笑いながら、胸ぐらを掴まれる。怒りでタガが外れているようだった。こうなれば、公共の場だろうが関係ないらしい。
「はっ、どんくさいのも変わらねぇな。お前さ、俺がどれだけの思いで口説いて世話してやったと思ってんの」
実にみにくい、歪んだ顔が私を見下ろしていた。怖い、でも純粋な暴力への恐怖と過去の暴言たちがよぎって、「助けて」が喉につっかえる。拳が振り上がって、私は目をぎゅっと瞑った。
「もう少し利用させろよ、このチビ───」
助けて、誰か。ううん駒形さん。
強く祈りつつも、襲うだろう痛みに備えていたら、どさりと崩れる音がした。待っても拳は飛んでこず、私は、恐る恐るまぶたを開く。
殴られるはずが、道端に倒れていたのは元カレの方だった。横に人影がある。間に合った、と払うように手を叩くのは紛れもなく、
「汐見さん、大丈夫? 怪我は?」
駒形さんだった。
本当に助けにきてくれた。ぎりぎり直前、まるでヒーローのように。私の祈りが、届いたらしかった。
「い、いえ、まだなにも」
「でも膝、赤いよ?」
「こ、これは家でちょっとぶつけたというか」
「そっか、ならあとで手当てでもしよう。とりあえずはこっちだね」
そう駒形さんが目をやるのは、足下。
「てめぇ、昨日の探偵か? やってくれるじゃねぇか。俺に探すな、って言ったのは、こいつかばうためかよ」
ゆらりと立ち上がる元カレ。怒りの矛先が変わっていた。駒形さんをにらみつけ、大きなモーション、襲いかかろうとする。
危ないと思った矢先、駒形さんはいとも簡単に元カレのパンチをよけると、その腕を引いた。右足を軸にして、くるりと反転。元カレの身体を背負い上げる。元カレの身体は見事に宙を舞って、地面に沈んだ。
「小さい頃に少しだけど、柔道をやってたんですよ。もう少し、ましな襲い方をしてきてください」
冷徹に言うと、駒形さんは掴んだままだった元カレの手首を裏へと捻る。元カレはよほどダメージがあったのだろう
「てめぇ、離せ! 痛いんだよ!」
「あなたが汐見さんにやったことが、どれだけ彼女を苦しめたか分かりますか。こんな軽いものじゃないですよ」
「はぁ? まだ殴ってもないだろ!」
「そうじゃない。この二年間ですよ。昨日、あなたが依頼の時に言ってたじゃないですか。汐見さんのことを、合コンでわざわざ捕まえた、東京で同棲するのにちょうどいい女だって。そんな扱いが、彼女をどれだけ傷つけてきたか」
「…………え?」と、私は言葉を失ってしまう。
それはつまり、最初の合コンの時から、落とすつもりで元カレは、私に近づいてきていたということだ。
元カレは、ふっと体を震わせ、はははと高く笑う。
「そうだ、そうだよ。合コンの場に騙しやすそうな小さいのがいたからな、あえて静かにしてたら、簡単に引っかかったんだ。作戦だったんだよ。自分と似てるって思わせるための。
そこからは、ちょっとSNSで下調べして会話合わせただけで、ころっとだ。劇にも興味はなかったし、明石なんていったこともねぇ。祥子が好きだっていうあの玉子焼きだって、食ったこともなかった。
恋人だけど、恋人じゃなかったんだよ、お前なんて。俺の生活の道具だったんだ! はっははっ」
既にクラックの入っていた思い出が、土台から一気に壊れて灰と化していく。一度ハイになったら、もう元には戻らない。崩れて、風に分解されていく。痛烈な刺激を私に与えながら。
なにが私はおめでたくないんだ。おめでたいもいいところだ。最初から運命なんて、一つもなかったんだ。すべて贋作の偽物。絶望に似た悲しみが心を暗く滲ませて、うるっと目元に水が溜まっていく。
「黙れ、それ以上喋るな」
駒形さんは、元カレの手首を捻りあげて離す。悶絶するように、そこから彼はうなだれるだけになった。
駒形さんは私に目線を合わせる。はっきり見たいのに、ダメだ。目がいっぱいに潤んで、駒形さんがぐにゃっとぼんやり映る。
「……ごめん。俺のせいで嫌なこと聞かせたね」
駒形さんの手が、私の頭に乗った。前髪が目にかかってこそばゆいくらい、そっと撫でられる。そんなことをされたら、もう、泣くしかなかった。
少しして、警察がやってきた。結構な騒ぎになっていたようで、たまたま目撃した通行人から通報があったらしい。
交番で、起きたことを話す。元カレだけは、その時に別室へと連れていかれていた。これが最後、もう会うこともないと思えば、せいせいした。その時には、私の涙も打ち止めになっていた。
聴取の時間が長くなって、私と駒形さんが解放されたのは、もうすっかり日の暮れた、夜の九時頃だった。
「ありがとうございました、色々助けてもらって」
交番を出てすぐ、私は深く頭を下げる。
「ううん。むしろごめん、俺が変な意地張って、そのくせ気になって、お客さん遣わせたりしたから大事になったんだ。
それも、ぎりぎりだった。寅次郞が、「汐見さんが店にくる」って言うから、もしかしたら危険かもしれないと思って迎えに行ったんだよ。最初から俺が強がらずに側についてあげられたらよかった。そうすれば未然に防げたかもしれない。こんなのに遅くまで警察に詰められることもなかった」
「あ、そうだ。お店は──」
「今日は臨時休業にしたよ。こんなに時間がかかると思わなかったから」
「……すいません、私のせいで。ごめんなさい」
色んな人を巻き込み、店まで休業させて。思った以上に迷惑をかけてしまっている。ごめんなさい、とすいませんを交互に繰り出して数回、私はわけあって彼に会いに行こうとしていたんだったと思い出す。
ただ謝るためではなくて、駒形さんに言いたいことがあったのだ。
「あの、お話があります」
意気込むあまり、もったいつけたような言い方になってしまった。そんなに時間のかかることじゃない、一言で済む。だが、
「俺も。俺も汐見さんに言っときたいことがある」
「えっと、駒形さんも?」
「うん。ねぇよかったら店来ない? お腹も空いてたでしょ。好物の玉子焼き、作るよ」
店に行ってから話すのは、別に問題ない。たしかにお腹も空いていた。私はこくりと頷く。ただそっちはいいけれど……
「あの、でもその玉子焼きって」
「分かるよ。関西風だろ? 出汁たっぷり使うよ」
実は玉子焼きではないのだ。玉子焼きだけど、玉子焼きじゃない。
矛盾しているようだけれど、これは正しい。私と元カレが、恋人じゃないけど恋人だったように。だか、むやみに言えば話がこじれそうだった。
「はい、関東のは甘いので、久しぶりに関西風食べたいです」
その玉子焼きも好きなので、それでいい。
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