第31話 忘れかけていたのに。



駒形さんのことは、これ以上は知らずともいい。そうなると残る問題は、いけすの謎についてだった。


私の勝手で踏み込んでしまった以上、半端で投げ出すわけにはいかない。だから私はその日、夜が更けていく中、必死で撮ってきた写真と睨めっこをした。


けれど、ねめつけているだけで、そこからなにも見出せない。時計の針だけがじりじりと進んで、近視進行中の目がブルーライトで痛むのみ。


「おぉまた来たんだ。お兄さんと話にきた? 嬉しいね」


そして次の日の昼、私は連日「鮨屋牡丹」を訪れていた。もしかしたら、なにか見落としている箇所や話があるのかもしれない、と思ったのだ。


「で、どっちの用? いけす、聡?」

「いけすです。岡本さん、もう一度見せてもらえませんか」

「迷いがないな、いいことだ。うん、どうぞ」


同じように見ていても、同じものしか見えてこない。私はいけすを前にして、屈んだり、覗いたり、視点を変える努力をしてみる。


駒形さんなら、どこをどう見るだろう。彼ならぱっと初見で分かるのかもしれないが、私は泥臭くやるしかない。丹念に調べていくと、水槽の縁が妙に汚れている箇所を見つけた。その汚れは横に伸びていて、拭ったような形跡もある。爪で汚れに触れてみると、少しぬめっとした質感をしている。


「なんでしょうか、これ」

「あぁごめん、きちんと掃除するよう言っとくな。たぶん、ここに網を掛けっぱなしにしててたせいだろうな」


「えっここって岡本さんが見てるんじゃないんですか?」

「ん? あぁ。俺はもう引退して管理役、いわば上皇だよ。ここは、今二年目の子が管理してる。寿司を握らせてもらえるまでの修行がてら、だな。んーでも、その子がミスしたってことはないと思うな。最初から優秀で、ミスとは無縁な奴なんだ」


謎に関係があるかもしれないと思ったのだが、そう言うなら違うのだろう。意気消沈はしたが、私は一応写真に納めておいた。


その後もしばらく周辺を観察したが、残念ながら他に変わった点は見つけられなかった。二日目にして、私はまだ振り出しにいた。一回目のさいころを振ることもできない。


「聡も分からないって言ってたんだ?」

「……えっと、まだちょっと」

「そうか〜。できるだけ早く、明後日ぐらいにはおやっさんに報告しねぇと、大目玉食らっちまうんだが……分からないもんはしょうがねぇよな」


駒形さんが関わっているのが嘘だけに、心苦しかった。このままでは寿司を馳走してくれて、駒形さんの話まで聞かせてくれた岡本さんに申し訳が立たない。


こうなってしまえば、私に取れる選択は、もう一つしか残されていなかった。


月曜日のバイト終わり、私は駒形さんが翌日の仕込みの作業をする横に、仕事も終えたのに張り付いていた。


依頼を受ける必要はないと言われていた手前、正直には言い出しづらい。


「……その、魚って死んだあとに食べると美味しくないものなんでしょうか」


駒形さんがちょうど魚、それもアジを捌いていたから、それをいいことになんとか遠回しに聞こうとする。


「死んだあとに捌いたらってことなら、そうだね、身の締まりも味も全く劣るよ。死ぬっていうのは、ストレスの塊みたいなものだからね。当然、ない魚の方が身が締まってて美味しいんだ」

「そうなんですか、じゃあ死ぬ理由って……」

「汐見さん、そんなに無理に隠さなくても分かるよ。岡本さんのところ、俺の実家行ったんでしょ」


だが、すぐに見抜かれてしまった。目と目が合って、堪忍しかねた私は静かに首を縦に振る。怒られるだろうかと思ったが、むしろ駒形さんは柔和に笑った。でも、どこか力ない。


「汐見さんは優しいからね、あぁ言ったけど、見捨ててはおけないんだろうなと思ってたんだよ」


違う、私はただ駒形さんのことが気になったのだ。優しいなんて称賛されるに値する行為ではない。胸が、ぴりっと痛む。


「水槽見てきた? あの大きないけす」

「はい、えっと……写真があります」


駒形さんは包丁の手を止めると、作業台から離れる。どうやら見てくれるらしい。私はスマホの画面を見せながら、数回スクロールしつつ、状況を説明した。


機械に故障した形跡はないこと、他の魚や水にも変わった点はなかったこと、今は二年目の子が管理しているららしいこと。私が見たものについては、全て言った。私がいらない情報だと取捨するよりきっと確実だろう。


水槽周りの写真が続く。次に横へフリックすると、私さえ予期せず、駒形さんの写真が表示された。イタリアンドルチェを食べたときに、偶然にも撮ってしまったものだ。


「これは、その、ドルチェを撮ろうとしたら映り込んじゃって! すぐ消しますから!」


私がゴミ箱のマークに指をかけたとき、


「謎、解けたよ」

「えっ、もうですか」

「うん。かなり簡単な話だ、寿司屋ならとくにね。岡本さんはともかく、……親父が分からないわけないと思うんだけど……。もしかしてもう衰えてきてるのか?」

「それで、どういうことなんでしょう」


「魚を死なせたのは機械でも、水でも病気でもない。人だよ。たぶん、その二年目の子に違いない」

「でも、その人は優秀だから、って岡本さんが」」


それは私も一度考えた。ただたしか岡本さんは、その人はミスをしたことがない、と言っていたはずだ。


「二年目の子がミスなしなんてありえないよ。自分に置き換えて考えたら分かるんじゃない? 汐見さんも二年目だったよね」

「……たしかに。私も未だに指導されます」

「だろ? でもそれが普通のことなんだ。とくに寿司職人みたいな、職人的な世界では、ミスしないなんてありえない。簡単な話、ミスしても、上司、要は俺の親父が怖いから正直に言えないんじゃないかな」


 上司の反応が恐ろしくて、ミスをなかったことにしようとするのは、私も経験がある。大体あとから見つかって、より大事になるから、もうしないようになったけれど。


「アジが死んだ理由は、たぶん網で掬うときに下手な取り方をして、暴れさせたからだろうね。写真に撮ってくれた痕跡は、それだね。アジは表皮が薄いから、その分怪我をしやすい。一度身体に傷がつくと、浸透圧って言って、身体にかかる負荷のせいで長くは生きられないんだ」

「じゃあその二年目の方が傷ついたアジを水槽に戻したから、その一匹が死んでたってことですか」

「うん、そんなところだろうね」


かなりあっさりと真相が判明したものだから、ちょっと呆気にとられてから、私はお辞儀をする。岡本さんに繋ぐため、メモを取ろうとしていたら、


「岡本さんには、俺から言っとくよ」


紙を取り上げられた。はい、と私は弱い反応をする。するしかなかった。

なぜなら、静かで優しい口調とは裏腹に、駒形さんの目が全く笑ってなかったから。


「……ごめんなさい。私、身勝手なことをしてしまって」

「ねぇ汐見さん。俺と実家のこと、聞いた?」


駒形さんの声が、表情と釣り合うだけ低くなる。その質問は、私に重くのしかかってくるようだった。


「……はい」


もうごまかしはきかない、きっと隠したところで見抜かれる。


「ははっそうか。格好悪いよな、俺。分かってるんだ、口だけ立派な理想掲げて、親との喧嘩が店を始めた理由なんて、情けないことくらい」

「私、駒形さんのこと格好悪いだなんて──」


微塵も思っていない。そう続けようとしたのだが、続きはあっけなく遮られた。


「もう帰っていいよ。お疲れ様。俺、ちょっと裏にいるから先にどうぞ。ほら、もう夜も遅い」


下手な作り笑いと、下ろされないままのアジを残して、駒形さんは私に背を向ける。隠し扉の奥、倉庫へと消えていった。鍵のかけられる音がする。


調理場に一人になってから、私はやっと気づいた。

まだ、最後の一線は越えていないと思っていたのが、思い込みだったことに。

過去を聞いた時点で、ううん岡本さんの話を自分から聞きに行った時点で、私はとうに危険なラインを越えていたのだ。


しばらくその場にいたけれど、駒形さんが戻ってくることはなかった。扉をノックしようともしてみたが、拳を作るだけで、やらずじまいになる。


駒形さんは、もしかしたら私が出ていくのを待っているのかもしれない。そう思ったら、気が引けたのだ。


家路をとぼとぼと一人歩き始める。五分の距離のはずが遠かった。自責の念が私の足を掴むせい、なかなか前に進めないでいたら、スマホが震えた。非通知だった、誰かと不審に思いながらも私は通話のボタンを押す。押してから、怪しい電話かもしれない、と思った。いけない、判断力が鈍っている。


だが、切るより、スマホのスピーカーから声がするのが先だった。

祥子、と名が呼ばれる。


「お前の居場所突き止めたからな、蔵前にいるんだろ。今度迎えにいくから待ってろよ」


忘れようとしていた、でも脳がすぐに思い出してしまう。

元カレ、大森英人の声だった。

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