第30話 昔話を聞いてしまって。
三
「どうせだから一から話そうか、小さい頃からの話」
「はい、お願いします」
私の言葉に満足げに頬にシワを作ってから、岡本さんはまず「つまらない奴だった」と駒形さんの幼少期を一言で総評した。
「悪口じゃないぜ? 正確に言うと、子どもじゃないみたいだった。とにかく真面目で、言葉遣いもしっかりしてる。俺が弟子入りした時、あいつはまだ小学校低学年だったのに、俺よりよっぽど礼儀正しくて驚いたぜ。いいところの坊主はこうなのか、ってな。
でも、後から誤解だと気づいた。良家を駆けずり回っても、あんな子どもいない。小学生の時から包丁捌きも握りも抜群で、十五近く離れてる俺よりうまかった。小学生が大根を立体的な花みたいに飾り切りしちまうんだから」
「……つまらないって言うとどの辺りが?」
「そこなんだが、あいつはそれだけだったんだ。料理、それも魚以外は興味も示さない。ゲームもしないし、外でも遊ばなかった。そのせいか友達も少なくて、よく一人でいたんだぜ? だから、見兼ねた俺がたまに遊んでやったりもしたっけな。
おやっさんがそう仕向けてたんだ、跡を継がせようとしてな。聡も満更でもなさそうだった。包丁握ってる間は、おやっさんに構ってもらえたからだろうな」
お父様は、駒形さんには一貫して「跡継ぎ」というスタンスで接していたようだ。それも、駒形さんに積極的になるのは唯一、寿司の握り方など仕事に関することについて教える時だけだったらしい。
「まぁ今考えたら、最初から子どもだから成り立つ話だったんだよ。ガキの頃って、まだ親が価値観の大半を占めてるからなぁ。だから、中学生になって、聡に反抗期がきたあたりから、少しずつ崩れだしたんだ。
と言っても、小さな反抗だったぜ? ちょっと別の料理に手出してみたり、寿司を勝手にアレンジしてみたり、そういうな。巷の中坊に比べたら可愛いだろ? 周りは夜遊びにぼや騒ぎにどんちゃんしてんだから」
「駒形さんが、そのイメージはありません」
「そう、あいつは大人しい奴だったからな。でも、おやっさんはそういう小さな抵抗を聡がやるたびに、鬼の顔して怒ったんだ。俺も何度も立ち会ってるけど、迫力があるんだよ、それがまた。有無を言わせねぇ職人の顔って言うの? だからいつも聡が引っ込んで終わってたんだが、高校生になって、さっきの事件が起きた」
「……水槽の」
「そ。あいつだって商売だと知ってて、前日までは世話してたんだけど、急にだった。一匹残らずだぜ。全部海に返しちまったんだと」
岡本さんは、少し物憂げな眼差しで、いけすのガラスに手を掛ける。
「なんで逃したかは聞いてないから知らない。でももしかしたら、聡は自分とこのいけすの魚を重ね合わせてたのかもな。逃げられない環境に囚われてる同士。本当にすくいたかったのは、魚じゃなくて己だったのかも」
掬う、と救う。少し遅れてから、私は掛かった言葉を理解した。
「でも、おやっさんは、そんなセンチメンタルを汲んでくれる人じゃない。えらく怒って、商売道具をどうしてくれるんだ、もう厨房には入れないって大喧嘩。
そこからだな、聡の目に見えた反抗が始まったのは。たぶんそれまでの蓄積もあったんだと思う。いきなり口も聞かなくなって、店の手伝いもぱったりやめた。高校出たらそのままうちで職人にって話も変わって、急に大学に通うって言い出して──」
幸い、お母様は経営のことも学んでおいたほうがいい、と進学に賛成だったらしい。それまでは脇目も振らずに料理に没頭してきたせい、成績は中の中だったが、猛勉強をするとみるみるうちに学力が向上。現役で青山学院大に入ったのだという。
「こう言うと、おやっさんが悪いようだけど、一概にそうとも言えないんだぜ? さっきも言ったけど、寿司屋って頑固なところがいるんだ。しきたりとか、そういう固さが必要な時もあるのさ」
「……それが伝統、だから?」
「うん。大雑把に言うなら、そんなとこだな。それに嫌気がさしたんだろ、聡は。俺は水槽の事件がなくても結局同じようになってたと思うね。事件が引き金になっただけだ。
とまぁ、そういうわけであいつは大学生になった。よっぽど実家にいたくなかったんだろうな。家を出て、わざわざ目と鼻の先の蔵前で一人暮らしを始めたんだ。
今の余裕ある風の雰囲気になったのは、その頃からだな。人と接するうちに学んだんだろ、自分をどう繕うか。あいつなりの処世術としてな。でも、こうして実家との揉め事になると大人どころか、途端に幼くなる。柔軟そうにしてるけど、こんな時の頑固さなんか、親父そっくりだ」
駒形さんとお父様は、大学時代の四年間も全く仲直りしなかったらしい。むしろ溝は深まるばかり。
そして卒業後、ついに駒形さんは今の店を開くまでに至ったそうだ。事前の知らせはなく、開店を知らせるチラシがオープン日にポストに入っていたのだとか。
店を始めた理由が、親への反抗心からとは知らなかった。駒形さんにそんな幼い側面があったことさえだ。
「話はこんなところだな。こんなところ、って言いながら話しすぎたな。聡には秘密にしてくれよ」
「……分かりました」
「どうだ、イメージと違ったんじゃないか? 今のあいつは完璧すぎるからな。俺に言わせりゃー、普段から少しは弱みを見せろって話だぜ。誰に対しても、今のあいつは完璧すぎる。照れた顔なんか見せたことないだろ?」
「……えっと」
私はたしかに見ていた、依頼人の柳田さんの言葉に顔を真っ赤に染めた彼を。
「その反応、見たことあるんだ? へぇ意外だな、この分だとよっぽどあいつは君のことを──」
岡本さんはふっと短く笑うと、私の肩を軽く叩いた。
「じゃあ水槽の件と、くれぐれも聡のこと頼むな」
水槽はまだしも、一従業員が、駒形さんのことまで仰せつかっていいのだろうか。思わないでもなかったが、私は曖昧に頷いておいた。
「またくるといい。聡の話でも、水槽の件でも、お兄さんは若い子と話したいしな」
駒形さんに、そんな過去があったとはつゆも思ってこなかった。
料理は天才的で、見た目や話し方は爽やかそのもの、推理も冴え渡る。真面目だけれど緩いところもあって、優しくもある。どこかでこの人は、順風満帆に生きてきたのだろう、と私は思ってしまっていた。
「どうしたの、考えごと? 手が止まってるよ」
「えっ、あっ……すいません」
午後五時すぎ、私は「蔵前処」へ予定通りに出勤した。とくにどこへも行かず何も聞いていないという体で、だ。
だが、駒形さん本人を前にして、全く頭の別の場所でものを考えるのは、要領の悪い私には難しかった。
「もう少しだけシャッキリしてね。今日も人少ないけど、一人のお客さんっていうのは変わらないから。楽しんでもらえるようにね」
いつもの笑顔の裏に、さっきの昔話がちらつく。
私は店内全体を見渡した。愉快そうなおじさんの愚痴が響いて、若い女の人も遠慮なく笑って、歳も性別も関係なく楽しそう。
「蔵前処」の雰囲気は、「鮨屋牡丹」とは正反対だ。くぐりにくいのれんもない、岡本さんに習ったお作法のような縛りもない。
でも反対だからと言って、私にはただ反抗心だけを燃料にやっている風には思えなかった。
店を始めたきっかけは実家との確執にあったのかもしれない。けれど、そんな理由だけで探偵なんてやるわけがない。それも、お客さんに美味しくご飯を食べてもらうためだけ、無料でやっているのだ。
「……いいお店ですね」
「そうだろ? 俺もそう思うよ」
昔の彼がどうだろうと知っても仕方がない、彼は今ここにいるのだ。そして私はその彼がいかに素晴らしい人かを見てきた、この目で。
ならばこれ以上、無駄な詮索はしないでおこう、私はそう思い直した。超えてはいけないラインも、守らねばならない。
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