第29話 釣り餌?
二
私は駒形さんの目につかないよう、こっそりメモを財布に忍ばせていた。
岡本さんは本当に困っているようだったし、それに結局のところ駒形さんの実家のことが気になるのだ、私は。
あくる土曜日の三時ごろ、私はメモ片手に浅草へと出向いていた。メモには、岡本さんの連絡先と鮨屋の住所が記してあった。元から私だけが来ることを予見していたのかもしれない。
「……ここかな」
店は、のれんを吊るしてあるだけの質素な佇まいで、いかにも老舗という雰囲気を醸していた。おごそかで、どう言って入ったらいいやら分からない。扉の前でまごついていたら、
「あぁ、君か。いらっしゃい。ごめんね、聡の代理?」
中にいたらしい岡本さんが、私の姿に気づいてくれた。
「あっ、はい……。まぁ」
「そうか。やっぱり聡は来ないよな。もし依頼を受けてくれても、自分で来ることはないかなと思ったんだ」
単独行動だとは言えないうちに、中に入れてもらえることになる。
昼の時間は終わっていて、店内には誰もいなかった。店主さんつまりは駒形さんのお父様はちょうど出かけているらしい。
「お昼は食べた? 少し握るよ。もちろんサービスで。腕によりかけるぜ。なんたって聡がお世話になってるんだ、それに謎も解いてもらわなくちゃいけない」
「えっ、いや、そんな!」
高級寿司をサービスだなんて。
まだ謎解きの手伝いをできるかも分からないのに、行きすぎた褒美だ。それに、のこのこと勝手にやってきた身でもある。
「見返りは求めてないから安心しな。前も言ったけど、取って食おうってんじゃない。好き嫌いなければ、お決まりでいいかな?」
だがこう言われると、好意をむげにはできない。
「じ、じゃあ……お言葉に甘えて。はい、大丈夫です……」
「よろしい。なにか飲む? 俺のおすすめは日本酒なんだけど」
「その、お茶でお願いします」
「ガードが固いなぁ」
それもあるけれど、まだ昼だし、夜には「蔵前処」へバイトに行く予定だ。就業前に飲酒をするような不真面目なキャラではない。
岡本さんは、お茶を注いでくれると、すぐに長柄の包丁を手にした。まな板の上には、白身魚が塊で乗っている。
「これは真鯛だよ。そろそろ旬が終わるけど、これは新鮮で活きがいい」
そこへ刃を入れて、まず皮を剥いでいく。身をいくくつかに分けたところで、身を削ぐように切っていった。
一切の無駄がなく、ブレもない。駒形さんの包丁捌きを見ているかのようだった。
正直さっきまでは、あまりの軽さに本当に職人なのかさえ疑っていたが、疑念は吹き飛んでいた。
「一丁あがり。もう醤油は塗ってあるから、そのまま食べてくれればいい」
「は、はい……!」
見る間に出てきた鯛の握りを前に、私は卓に置かれていた箸を割る。だが、そもそもいらないらしい。
「手で食べるのが基本になってるんだ、このお店は。ひっくり返して、ネタが舌に直接乗るように食べてもらえる?」
「……はい、えっとこう……?」
お作法が分からないながら、見た目からして艶めいた寿司を私は口に運ぶ。
脂の透き通った旨味が、舌の上でとろけた。そして不快感を一切与えずに消えていく。
私の場合、比べる対象が回転寿司になってしまうから、格の違いをまざまざと感じさせられた。同じ魚でもこうも違うものなのか。
舌触りも、味も、後味も、なにならワサビひとつとっても違う。
「これ食べたら他の寿司屋には移れない、とか前にきたお客さんが言ってたなぁ。家族にはこの店に来てること秘密にしるんだってよ、悪いよな」
利用客のほとんどはビジネスでの接待、もしくは名家の方が多いのだと岡本さんは言う。
「次はヒラメ、もう少し白身魚を続けようかな」
岡本さんは私が遠慮しても、次々と握ってくれた。そうしながら、私がお作法を間違えそうになると逐一指導が入った。
「おやっさんが、お客様の食べ方にも厳格なんだ。普段はこうして板前がべらべら喋るのも禁止になってる。独自の決めもあって、そこまで含めて提供してるってことらしいぜ。だから俺もいつの間にかうるさくなっちった」
客の全員に今みたく教えるとなると大変だ。でもたぶん、ここに通えるような人はそんなことは弁えているのだろう。
しっかり最上級だというマグロ(時価というので、値段は恐ろしくて聞けなかった)までを堪能させてもらってしまった。
それからやっと、アジが死んでいたといういけすを見せてくれることになった。
通用口を抜けて、少し先。薄暗い明かりの中に、想像していたものの二回りは大きい水槽が、でんと構えていた。
それだけに水流の音と、ポンプ機のジーという機械音も大きい。
「ちょっとした水族館とか釣り堀みたいです」
「まぁそう思うよな。立派だろう、十メートル四方以上はある。ここに入ってるのは活きのいいシマアジとあとはサバが数匹。遊泳魚って言って、ある程度のスピード以上で泳いでないとすぐに窒息しちゃうから、広さがいるんだ」
「これだけ広いとしばらく飼えそうですね」
「ううん、入れた魚は少なくとも一日半以内には捌いてる。それ以上残るようだと、味が落ちるから捨てざるを得ない」
「……そうなんですか」
もったいない、と顔に出ていたのかもしれない。
「それなりの値段をいただいてる以上、手抜きはできない。そこらの店だと話は違うと思うぜ。まず、いけすに入れたらもう餌も与えないのが普通だ。管理が大変になるからな。でも、少しでもものを食べない時間があると魚は味が落ちる。だからうちは餌も与えながら管理してんだ」
いけすに入れているのは、基本的に青魚だけだそうだ。青魚はしめたてが味のピークなのだそう。
他の種の魚は、血が回らないようにして多少寝かせた方が美味しくなるのだという。とにかく新鮮であればいいと思い込んでいた。
「で、今回死んでたアジは、このいけすの一匹だ。今は一度全部水を変えたから問題ないはずなんだが」
「少し見させていただいても?」
「もちろんだ、しっかり頼むぜ」
一応、ネットで下調べはしてきてあった。水槽内の魚が死ぬ原因、その一位はサーキュラーの故障などによる水中の酸素不足らしい。そして二位はストレスによる病気の蔓延、三位は水槽内の魚同士の相性とあったが……。
見たところ機械は正常に動いているし、今いる魚の動きが弱っているかといえばそうではなさそうだった。岡本さんは、プロなのだ。まさか相性の悪い魚を入れたりするまい。
分からない、けれどここで終わっては寿司をタダで貰いに来ただけのOLになってしまう。
私は許可を得て、何枚か写真を撮る。フラッシュを焚かないように、と注意があった。
強い光が当たることで、魚のストレスになるらしい。照明が控えめに設定してあったのはそのためだったのだ、と気づく。
そこまで厳密に管理しているからこそ、魚たちはこうして元気に泳ぎ回っているのだろう。そうなると、なおさら死因が分からない。私が糸口探しに手間取っていると、
「そういえば昔、聡がこのいけすの魚、逃がしたことがあったなぁ」
岡本さんがしみじみと言う。
「駒形さんがそんなことを?」今の彼がやるとは思えない行為だ。
「あぁ。まだ高校生の頃だ。多感な時期だし、色々思うところがあったんだろうな。こいつらはもう食われる運命なわけだし」
そうだった、水族館のようと言ったけれど、そんなに甘いものじゃない。
聞いてから、泳ぐ魚を見ると、少し沈痛な気持ちになった。無責任で、無意味な同情だと知っていても。
「高校生としては普通の感性なんだけど、おやっさんはそれをかなり勢いよく怒ってな。プロとしての意識を持て、って十七の青年に言ってのけたんだ。そこからあいつ──、ってここから先は依頼には直接関係ないな。
聞きたかったら話すけど。お兄さんとしてはOLとの会話で休み時間を過ごせるのはねがってもない。俺、あいつがまだ小学生の時に、おやっさんに弟子入りしてな。世話役してたから、よく知ってるんだぜ」
「……はい、聞きたいです」
乗ってはいけない釣り餌、そんな気もした。
けれど、食いついてしまう魚の気持ちがよく分かった。
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