第15話 私も連れて行ってください。



その日は、すぐには寝付けなかった。


外の音が筒抜けに聞こえる壁や床下からの底冷えもあるが、それが直接の原因ではない。ヨークシャープディングのことだ。今日食べたのが本物だとすれば、塩っけ、香り、甘さ、どれをとっても不足していたように思う。ナポリタンに感じたような懐かしさに至ってはまるで感じない。


たぶん本来的には、素朴な味だけがするものなのだろう。肉と一緒に食べることで、その存在は活きるのだ。


じゃあ別のものということもある? でもそれではイギリスの味ではなくなってしまう。


「うーん、分からないなぁ」


堂々めぐりをしだした時、スマホが枕元で光った。暗いワンルームの天井がぼんやり照らされる。


こんな遅くに連絡だなんて。重大ニュースかなにかだろうか。今の私に、夜中にメッセージ交換をするような親友はいない。くるのは定時に配信される新聞記事くらい。


姿勢は変えないまま手だけでスマホをたぐり、通知を見る。ホームボタンを押して、瞳孔が開いてから指が固まってしまった。ぴくり、ともしない。

元カレ・大森英人からメッセージが届いていた。


一件、とだけ書いてあって、内容は分からない。私はすぐにスマホを真上に掲げて、メッセージアプリを開く。

動悸がしだしたので、ふぅと深呼吸。恐る恐る既読をつけないように見る。


「どこにいるんだよ。そろそろ帰ってきてくれよ」、とそうあった。


 哀愁のようなものを感じた。瞬間的に同情しかけてしまうが、この同情の鎖に散々苦しめられて、ようやく逃れてきたばかりなのだ。


私はメッセージ欄ごとスワイプして、消してやる。もう彼と過ごしたあの部屋は、彼は、私の戻るべきところではないのだ。じゃあ、この部屋かというとそれもズレている気がするが。


私はなにとはなしに心細いような気になって、スマホを放ったあとで布団の中、身を丸める。無理矢理、プディングのことを頭の真ん中に持ってきた。孤独な夜に、なにも考えないような無謀な努力をするよりはましだった。


そんな夜だったから翌日・金曜日の私は、仕事が始まっても始終うとうととしていた。こっくりと船を漕いでは、これでは駄目だと切り替えてデスクトップに向き合う。


大学事務の仕事は、主にデータの入力や管理と、生徒たちへの対応に分かれる。

対応といっても、進路や単位の相談などは、専門のスタッフがいる。私の仕事は、事務手続きなどの説明が主だ。



それでも苦手意識はあるが、業務の範疇なのでそうも言ってられない。


窓口にいたら、生徒ラウンジからの雑然とした話し声たちが望まずとも耳に届いた。


写真を撮りあったり、かしましく色恋沙汰を語り合ったり。


たかが二つ三つしか変わらないのに彼らが若く思えるのは、どうしてだろう。社会に出る出ないの差で、年齢じゃないのかもしれない。真理を得たところで、次の生徒がブースへやってきた。


ウェーブのかかった長い髪に、水色の目。留学生らしい女の子だった。私は拙い英語を使おうとするが、先手を打つようにその子はずっと流暢に日本語を話し出す。

内容は、留学の期限についてだった。


「延長したいです、できたら」


理由を尋ねると、まだ学び足りない、とのこと。ただ決心に満ちたその青い瞳には、それだけではない執念のようなものを感じた。柳田さんと同じで、留学以外になにか別の目的があるのかもしれない。


生徒情報を見てみると、エミリーと名がある。イギリスそれもロンドン出身の子だった。これは巡り合わせかもしれない。


一通りの事務手続きについて詳説を行ったあと、私はお喋りの一環で


「昨日ヨークシャープディングを食べたんだよ」


と投げてみる。


すると、説明の連続に若干疲れの色が見えていた彼女は、一気にその生気を取り戻した。


「アイラブ! イッツノスタルジー! アイリメンバー!」


興奮したのだろう、英語で捲し立てるように身振りを交える。初めの短文を除いては、全く聞き取れなかった。生徒の熱弁に応えてあげられない私のリスニング力のなさはさておき、重大な気づきをしたかもしれなかった。


ノスタルジー、懐かしさ。そうだ。ヨークシャープディングを懐かしがるのは、イギリス人なのだ。日本人ではない。



それから仕事と「蔵前処」のバイトの合間に調べ物をして、私は一つの仮説を得るに至っていた。


が、その仮説が正しいかの確信はなかった。私を揺らがせていたのは、駒形さんから音沙汰がなかったこと。私で気づくことなら、もうとっくに導き出しているのに違いないのに、お店にいても彼はなにも言い出さない。


ただ、もし私の仮説があっていたらと思うと、そうくじくじしてばかりもいられなかった。


柳田さんは、「週末までに」と依頼していた。期日を過ぎてしまえば、問題が起きるということもあるのかもしれない。


土曜日の仕事終わり、私は何度か駒形さんに話しかけるタイミングを伺う。が、彼は、なにやら調味料の配合に熱心になっていた。醤油、砂糖、みりん、酒。和食の基本調味料だ。和食メニューの見直しでもしているのかもしれない。


邪魔するわけにもいかないし、落ち着かないし、と右往左往していたら


「リスみたいだね」


顔を上げて、あははっと声を出して笑われた。


天使みたいな顔をして、小動物扱いとはこれいかに。でもリスなら可愛いから、いいかな。あ、でももしかして頬にご飯を隠すくらい食欲旺盛だからって理由なら嫌かも……なんて場合ではなかった。


「駒形さん、その、私……えっと」

「なに?」


作業台に背を屈めているから、華やかな顔が上目にこちらを捉える。

やっぱり探偵相手に失礼だろうか、ここへきてよぎって、私は唾を飲み込む。


「言いにくいこと? だったらいくらでも待つよ」


 待つ、と言って目を見つめながらとはずるい。早急にその綺麗な瞳の束縛から逃れなくては、虜にされて手後れになってしまいそうだ。だから少し早口になって、


「……私、謎が解けたかもしれません」


と控えめにぼそり。


「謎って柳田さんの食べたヨークシャープディングのこと?」

「……はい。……間違ってるかもしれないし、当たってるなら駒形さんも分かってると思うんですけど」

「俺のことはいいよ。それで、なんだと思ったの」


 いざ話そうとすると果たして不安になってくる。のだが、「遠慮しなくていいよ。ここで間違っててもなんの害もないしね」と勧められて、私は口を開いた。


「……えっと、柳田さんが食べたのはヨークシャープディングじゃなくて、ポップオーバーだったんじゃないでしょうか」


ポップオーバー、それが私の至っていた仮説だった。

ポップオーバーとは、ヨークシャープディングとほとんど同じ材料で作られているアメリカで人気のクイックブレッドらしい。らしいというのは、ネットで検索していて知った情報だからだ。


実際、ヨークシャープディングから派生して作られたものだそう。違うのは生地にバターや砂糖、蜂蜜を使っているものが多いという点。日本でも若者の間では流行していて、私も買ってみたことがあった。


これがまさに香り高さ、甘さ、塩っけの三項目を満たしているのだ。味としては、デニッシュパンに近い。


私は控え室に行って、鞄に入れていたポップオーバーの小袋を手にする。実物があった方がわかりやすいかと、今日の昼、お店に来る前に近所のベーカリーで購入していたのだ。


戻ってくると、折良く駒形さんは作業が一段落ついたところだった。差し入れに、と言うと、代わりにコーヒーをいれてくれる。


駒形さんはポップオーバーを一つかじって「美味しいね」と言ってはくれたが、続けて


「惜しいね、いい推理だとは思うけど」


とゆっくり頬に笑みを広げた。

転じて好奇心に駆られた少年のような表情になって、


「どうしてそう推理したの」と首をかしげる。「あれば教えて欲しいな」


「……実は職場で留学生の子と話す機会があって──」


私は、学校でのいきさつを述べる。

イギリス人のエミリーが懐かしい、と言うのがヨークシャープディングなら、それを食べて「違う」と言った柳田さんが食べたのは、そもそも別の物かもしれないと考えたのだ。


そこで調べる中で浮かび上がったのが、ポップオーバーだった。

アントニーさんがアメリカ出身なら、柳田さんがポップオーバーのことを、ヨークシャープディング=イギリスの味と勘違いしていた可能性もある、そしてその味を日本で食べたことのあったデニッシュの味と重ねた、と。残念ながら、外れているらしいけれど。


「間違えてるって分かってて説明するの恥ずかしいです」

「ごめんごめん、そんなつもりはなかったんだけど、気になって。目の付け所はいいと思うよ。けど、それならそもそもアントニーさんが「ポップオーバーだ」って柳田さんに言ってると思うな。それに、アントニーって名前、実はイギリス名で一般的な呼び方なんだ。アメリカだと同じ綴りで、アンソニーになる」


 はぁ、と私は感嘆符を漏らす。なんて博識なのだろう。料理だけではないあたりは、大学での勉強によるものなのだろうか。


こう聞くと、私の推理は穴だらけだ。


「まぁ俺も自分の推理に絶対の自信はないけどね」


そしてどうやら、駒形さんは真の答えに辿り着いているようだった。


とすれば、駒形さんは正解を知っていて、私に言わなかったことになる。依頼の期限は明日まで。だが私は、明日の予定も聞かれていない。それはつまり、


「……駒形さん。もしかして一人で柳田さんに会うつもり、でしたか?」


 ということだ。


「ははっ、ばれたかー。名推理」

「どうして、ですか。そりゃあ私がいて、どうにかなることじゃないんですけど」


助手といっても、できることは限られている。けれど全く頼って貰えないというのは、少しもやっとする。胸の奥深く、爪を立てても届かない箇所がむずがゆくなってくる。


俯いて返事を待っていたら、


「顔あげて。ごめん、ちゃんと言えばよかったね。深い意味はないよ。ただ明日が定休日だったから」

「……えっと?」


きょとん、と私は首が横に落ちてしまった。


あまりに意外な理由が返ってきた。というより、理由になっていない。


「働き始めてから、毎日出勤してきてるでしょ、汐見さん。固定の休みくらいは、休んで貰わないと、労働コンプライアンス的にも、汐見さんの健康にもよくないんじゃないかって思ってね。それで言わなかったんだよ」


 深刻に思い詰めかけていた自分が馬鹿みたいになる理由だった。

 なんだ、それ。


「本当は来てくれた方が助かるよ。まだ気になってることもあるしね」

「……じゃあ行きます。無給で大丈夫ですから」


むしろ家にいても、ただ悶々としてしまって、むしろ精神衛生上よくなさそうだ。休んだ気にならないと思う。


「私も、つれて行ってください」


 駒形さんは少したじろいだようで、つむじに手をやる。筆で書いたような綺麗な曲線をした眉が、困ったを表すように、左右に下がっていた。


「……いいけど、その代わり明日も仕事扱いにするからね。それと来週からは三日以上は休むこと」


 あとから思えば、普段にないくらい押しが強くなってしまった。


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