第16話 蔵前ってどんな街?
五
柳田さんとの待ち合わせは、十三時に「蔵前処」だそうだった。
けれど駒形さんと会うのは、十一時に蔵前駅。また少し余裕を持った時間設定になった。どうせなら少しは休日らしくしてほしい、と駒形さんが蔵前の周辺を案内してくれることになったのだ。
先週までの日曜日、私は、太陽が高くなっても布団の上に転がっていた。コインランドリーも、コンビニも後回し。だが、今日の日曜日ばかりは、私はまだ日が昇るより前に跳ね起きた。
短め、内側に巻いてきてしまう髪を櫛で何回もとぐ。化粧も、普段は五分もかけないところ色々試していたら都合一時間かかった。
デートではなくて、仕事。仕事なのだけれど、日曜日に会うというのは特別感がある。軽くネイルも施して、あとは服。
私はいつもバイト帰りに駒形さんの私服を見ているが、こちらが見せるのは初めてだった。なにせ土曜日も私はスーツで店に行って仕事中は制服だ。
「……どうしようかな」
と言ってみるけれど、迷うほどクローゼットには衣類はかかっていない。お洒落めなモノトーンコーデが一つと、シャツにギャザースカートを合わせたカジュアルなのが一つ。見た目だけでいくなら、前者の方がずっと映える。
が、それは元カレがいつかのプレゼントでくれた曰く付きのものでもあった。わざわざ前の家から持ち出したのは、手持ちの中で一番高価そうだったからだ。
鏡の前、交互に身体の前にかざしてみるが見た目の問題ではないから決まらない。決めかねていたら、待ち合わせ時間があれよと迫ってきていた。
ぱっと決めて着替えると、私は家を出る。スニーカーで地面を鳴らしながらちょっと走って駅に着いた。
駒形さんは、既にいた。薄手の白いタートルネックに、紺のセーター姿。
芸能人かというようなオーラが、彼から放たれていた。
駅の出口から出ていく人が揃いもそろって二度見していく。そのオーラは、なんでもない駅の入り口を特別な会場へのエントランスと錯覚してしまうくらいには、華やかなものだった。
油断していた。いつものシャツスタイルは、仕事の行き帰り用だったというわけだ。それに比べれば、私のなんとみすぼらしいこと。
迷った末、私が選択したのはカジュアルな方だった。
「あの、私の家、服がなくて。決して適当にしたわけじゃ」
「十分似合ってるんじゃないかな」
なぜか顔を背けながらの褒め言葉だったが、お世辞でも救われた気になった。少し頬が赤いのは、湿気のせいだろうか。
「じ、じゃあ行こうか」
駒形さんは、そう言うと先々歩きださんとする。
私は、それに待ったをかけた。一つだけ確かめておきたいことがあった。
「……あの、これは仕事に含まれますか?」
仕事かプライベートか。乙女心、いやOL心的には重要なことだった。
「町のことを覚えるのも仕事の一環だよ。あ、でも別に仕事だからって息巻く必要はないからね。リラックスしててよ、休みの気分で」
もうそれは仕事と言えないのでは。一般論がよぎったが、それをあえて言及して、わざわざプライベートと訂正させたところでしょうがない。
「大丈夫、給料には含まれるから」
「そ、それを気にしてたわけじゃないですよ!」
食いしん坊なイメージに、お金に目がないとまで思われたら、最悪だ。頬に限界までひまわりのタネを詰めた強欲なリスが浮かんだ。私は、強く首を横に振ってリスの存在ごと否定する。
「もう行きましょう」
今度は、私が早足で駒形さんから離れた。だが歩幅の差が大きいからか、すぐに追いつかれる。最終的にはペースが落ちてきて、ゆっくりと散策でもするくらいの速さになった。
ふらふらと駅周辺を中心にして練り歩く。有名だというチョコレート店でホットチョコレートをテイクアウトしたり、文房具の専門店だという店では、ペンの試し書きなんかをしたり。
「距離的には大さいて離れてないけど、浅草とここはまた違うでしょ?」
昼に蔵前を歩くのは、初めてのことだった。
夜は洒落た雑貨屋街と落ち着いた住宅地、そういうイメージが固まりつつあったけれど、こうして昼に見れば、また別の姿をしている。
通りには、若者の姿が多く目についた。近くを歩いていた女子大生らしき二人組は、スマホを握りながら、楽しそうにそこらを指差す。
はしゃぎたくなるのも致し方ない。雑貨屋はもちろん、現代風のカフェやスイーツ店、洋服店に陶器屋まで。どこかで見ようなたものはほとんどなく、目新しいものばかりだ。全体から、若い活気を感じる。
「蔵前は、東京のブルックリン、なんて呼ばれ方をすることもあるらしいよ」
「ブルックリンってニューヨークの?」
「うん。ブルックリンは、ものづくりの職人が多い街で、イースト川って大きな川が流れてる。蔵前もそういう職人も店も多いし」
「隅田川が横に流れてるから?」
「そう、正解。さすがに川も町も規模感が違うけどね。でもこの町をよく言い表してるんじゃないかな。いい例えだよね、東京のブルックル……ごめん、今のなし」
私は感心して話に聞き入っていたから、なにが起きたか把握するまで時間がかかった。
どうやら噛んだらしい。私はちょっとしてからこみ上げてきて、くすっと笑う。駒形さんはさもなにもなかったように訂正する。
「ブルックリンっていい例えだよね」
「ふふっ、そうですね」
似ているなと思った。いやそれ以上かもしれない。蔵前の町そのものみたいだ、この人は。普段はパーフェクトなくせに、少し抜けているところもあって、遊び心もある。それが常に一緒に存在していて、ふとした時に入れ替わる。
「さて気を取り直して、そろそろ店に行こうか」
「はい。ふふっ、噛んだ」
「俺だって噛むことくらいあるよ」
面白い町だ、そして面白い人だ。私は、そこからしばらく口元が緩みっぱなしだった。
店へは、約束の時間十分前に向かった。
裏口から店内に入ると、駒形さんはすぐにオーブンの余熱を始める。
その間に、昨日から寝かせていたらしい生地を素早く型に流し込んでいた。見た目や作業手順はなにも前と変わらないように見えた。だが、なにか目に見えない工夫をしている点があるのだろう。
私はそれを横目に見つつ、お茶の用意をする。紅茶ではなく、日本の玄米茶。果たしてイギリス料理なのに合うのかは分からなかったが、駒形さんはこれでなければいけないのだという。
玄米茶は、湯が熱ければ熱いほど茶葉の開きがいいらしい。ポットではなく、カウンター前にある飲料用の一口コンロでやかんで湯を沸かす。沸騰するのを見守っていたら、
「手伝って欲しいことがあるんだけどいいかな」駒形さんが隣に立って言う。「この依頼をしてきた理由が引っかかってるんだ。それが知りたい」
ちょっとでも力になれれば、とここに来たのだ。
もちろん、私は迷わず頷いた。
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