第7話 元演劇部員ですから!
「……泣いてもいいんですよ。強がることなんて一つもありませんから」
こんな言葉はかりそめの慰めにもならないことは、よく分かっていた。
なにせ、他人はどうしたって他人なのだ。たとえ同じような痛みでも、全く一緒ではない。分かっているつもりでも、根本まで共有できるわけではない。
けれど誰にも言ってもらえないよりは、ほんの少しマシだったりするのだ。
少しばかりそうして慰めていると、落ち着いてきたらしい加奈さんが「化粧整えてくる」と残して、席を外す。
「やっぱりいてもらって助かったよ。俺じゃあどうにもできなかった」
駒形さんはなにやらノートに書きつけながら、私にこう礼を述べた。
「女子の気持ちは女子の方が分かるものですから、これくらい。あの、やっぱり浮気なんでしょうか」
分かっていながら、少ない可能性にかけたかった。これだけ物証が揃えば、たぶんそうなのだろうとは思ったのだが、
「……いや、浮気ではないと思う」
「えっ、そうなんですか」
声が上ずってしまった。
抑えて、と言われて顔が赤らむのが分かる。私はトーンを下げ、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「うん。あの冷蔵庫、ビールもお菓子も必ず二つ入ってた。部屋に置いてた物もそう、大概が二つだ。あれはよっぽど相手のことを思ってないとできない」
「えっと、ご機嫌取りっていう可能性は?」
「だとしたら、もっと露骨なことをやるはず。高い贈り物したり、ね」
駒形さんは、メモを書きつけ終えて、ふぅと息をつく。表情からは余裕さえ感じられた。
「汐見さん、ちょっと手伝ってもらえないかな」
どうもそのやや切れ長で、柔らかなブラウンの瞳には、もう真実が見えているらしかった。
「……私にできることであれば」
「うん、じゃあぜひ。お願いは一つ、このまま、加奈さんには浮気ということにして、演技をしてはくれないかな」
「…………はい?」
「オーバーになりすぎず、自然な具合に、怒りを煽って欲しいんだ。きっと汐見さんならできるよ」
なにを根拠にそんな無茶なことを言うのだろう、この人は。
もしかして私が元劇団員だと気づいての発言なのだろうか。
だとしたらどこで? それ以前に、わざわざ怒らせる理由も分からない。
そうこう考えていたら、反論できないうちに加奈さんが戻ってくる。駒形さんからは、目配せが一つあった。
どうもやるしかないらしい。
私は、精一杯に悲しみと苛立ちの混じった面持ちを作る。
台本はなくとも同棲、浮気、この二つのキーワードさえあれば、今の私にとって難しいことではなかった。
「加奈さん、大丈夫ですか?」
「うん、もう平気……ではないけど」
「当たり前ですよ。加奈さんは真剣に思ってきたのに、こんなのってないです」
感情を押し殺したように、声を喉奥できゅっと絞りこむ。言葉の端に意識して抑揚をつける。
「浮気された事実だけじゃない。二人で過ごした時間が、全部嘘みたいに思えてきいちゃいますよね。
二人で並んで見た映画も、二人で行った旅行とかも全部全部、偽物なんだって。彼にとっては誰でもいい、そういう役割に過ぎなかったんだって」
自分の思いの丈も乗ってしまった。
私情が乗るなんて、元劇団員の片隅にもおけないが、溢れてきてしまったものはしょうがない。
「……なんか、だんだん腹立ってきたかも」
加奈さんが小さく呟いた。そこから徐々に愚痴が垂れてくる。
私はそれに乗っかったり、引いたりとやった。やがて愚痴はより明白な意思になっていって、
「帰ってきたら、一発この皿を突きつけてやってください! 許す許さないの話は文句言ってやってからです!」
「うん、そうする! 絶対許してやらないんだから!!」
そして、無事に怒りを作り出すことに成功した。
もうリミットのはずの九時が近づいていた。はじめの約束であれば、ここで退散するはずだったが、加奈さんはすっかりそれを忘れているようだった。
「絶対目に物見せてやる〜、かなめぇ!!」
彼女がそう叫んだあとすぐ、玄関の方で鍵をガチャガチャとやる音がする。
もし浮気をしていないのだとして、なにも知らない彼氏さんに、この状態の加奈さんをぶつけるのはいいのだろうか。
無駄な争いを生んでしまうだけのような気がする。
だが、駒形さんはにこにこと微笑むだけだった。仕掛け人のくせに、あたかも、物見を楽しむ客かのように。
「ねぇ知らない靴があったけど、誰か来てるの……って、本当に誰?」
彼氏さん、袴田要さんはリビングに入ってすぐのところで、コンビニ袋をさげたまま、立ち止まってしまう。
そりゃあそうだ、見知らぬ高身長の美男子と私のような小さい女、それに自分の彼女が顔を真っ赤にしてリビングに三つ巴みたく集っているのだから。
想像した通りの小綺麗な印象の顔が、怪訝そうに少し歪んでいる。
「おい加奈、人が来るんなら先に言ってくれって言ったじゃん」
「そんなことどうでもいいでしょ!!」
加奈さんは席から飛び上がって、わざとだろう、足音を鳴らして袴田さんの元へ。
「あんた本当最低!! 浮気してたんでしょ、証拠見つけたんだよ。カコって人が好きなんでしょ?! いつから?」
「は、はぁ? なにを言ってるんだ、加奈? 落ち着けって! 違う、違う。誰だよ、カコって」
「しらばっくれるのはいいって!! もう今さら言い訳しなくたって分かってるっての。このお茶碗、その女に渡すんでしょ」
冷たく言い放つと、袴田さんの胸に土器を突きつけた。目を丸くした彼に、それは奪い取られる。
「お前これ、どうして!」
「……後ろの二人に見つけてもらったの。あんたが、要が、うちでご飯食べてくれないのが気になって、探偵さんに調査を依頼したの」
「はぁ? なんでそんなことで!!」
「そんなこと? そんなことって話じゃない、ないんだよ、私には!! あんたは家でお米を食べないってだけでも、私には違った。すっごい気になったし、不安だった」
なによりさ、と加奈さんは切なそうに続ける。
「あんたと一緒にご飯食べるの、私好きだったんだ。たくさん食べちゃって、何合炊いてもおかま空にしちゃって、馬鹿みたいだけどそういうのが好きだった。だから、もしご飯をうちで食べないのが私のせいなんだったら、直さなきゃってそう思ったんだ」
加奈さんの声が、しんと静まりかえっていたリビングに響き渡る。袴田さんは気圧されたようで、じりと一歩後退りした。
「袴田さん、でしたよね? サプライズはいいですけど、相手を追い込むくらいなら適度なところでやめたほうがいいですよ」
駒形さんは、やはり全てを分かっているようだった。
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