俺は神山くんではない

 迷うことなくまっすぐ南へ。車がすれ違うことのできない細い道には、いつのまにか真新しい砂利がまかれていた。両側の雑草も、舗装されている公道まできれいに刈り取られている。たぶん職人を呼び立てて急ぎ足で仕上げたのだろう。「早くしないと日が暮れるぞ」と追い立てる錦木さんの姿が思い浮かぶようだ。


 いまさらながらすっかり予定が狂わされたことに腹を立てつつスーパーに入り、買い物リストを取り出す。そこには優美なボールペン字でこう書かれていた。小麦粉、砂糖、卵、無塩バター、バニラエッセンス、シナモンを各ひとつ。洋菓子でも作るつもりだろうか。どちらかといえば薬草を練るほうが似合いそうだが。普段から母さんに買い物を頼まれるため、棚の位置はだいたい把握している。俺はさっさと買い物を済ませ、来た道を戻る。


 家の前では草むしりというより植えたばかりのハーブをつまむ錦木さんがいた。ただでさえ小さいのに、かがんでいるとさらにこじんまりしている。日よけのサンバイザーが年寄りくさいため、知らなければおばあちゃんと見まがいそうだ。俺は別に愛想を振りまく必要もないだろうとぶっきらぼうに声をかけた。


「いま戻りました」


 振り向いた錦木さんは、寝起きとは打ってかわってまばゆい笑顔を向けてくれた。


「おう、おつかれさま。早かったね、神山くん」


「え?」


「いやあ、助かったよ。ほんとにありがとう。お礼につめたいミントティを淹れよう」


「いや、ちょっと待ってください」と、俺は焦りながら問いただす。「いま、なんておっしゃいましたか?」


 錦木さんはサンバイザーをはずした。髪型がキャンプファイヤーの炎のようになっているが、いま指摘するべきところはそこではない。


「ミントティが苦手なら、カモミールティにしようか?」


「いえ、お茶の話ではなくて、俺は先名です」


「あいにくとセンナ茶はないのだ。申し訳ない」


 気のせいだろうか、どんどんどつぼにはまっていくのは。俺はついに立てかけた回覧板を取りに行って戻ってきた。表紙に張り紙された名簿を見せることにしたのだ。


「俺は先名四葉という者で、母に頼まれて回覧板を持ってきたんです。もしかしてどなたか別の方と間違われていませんか?」


「なんと、それは真か。君は神山君ではなかったのか」


 古風な口調もさることながら、仕草まで年相応ではなく老けている。錦木さんは深々と頭を下げてから俺に謝罪した。


「どうやら私はすっかり十年ほど会っていない親戚の神山君と間違えていたようだ。昼過ぎにはと話していたのに来なかったということは、よほど嫌われているらしい。あれは社交辞令だったのかもしれない」


 久しぶりに顔を合わせたかと思えば開口一番で買い物を言いつけられるなら、誰でも敬遠するだろう。俺は顔も知らない神山君を気の毒に思いながら言った。


「そんなに恐縮していただかなくて結構です。誰にでも間違いはありますから。それでは失礼します」


 財布を突っ込んだ買い物袋を手渡すと、錦木さんはたったいま思い出したように付け足した。


「申し遅れたが私は錦木マユミといい、名前は真実の弓という漢字を書く。ここには三日前に越してきた。明日には自治会長さんとあいさつ回りに行くつもりでいたのだ」


「そうだったんですね」


 付き合いづらそうなご近所さんができたと思ったがその感想は心のなかで留めておく。どうせ俺の役目は親の使い走りだ。「よろしくお願いします」と、無難に言葉を交わし、その場をあとにした。

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