東の森へ、回覧板
藍は実に楽しそうに、さっそく連絡先の交換をしたクラスメイトやバドミントンとテニス、どちらの部活に入ろうか決めかねているという話をしている。それに対しいちいち大げさな相づちをうつのが俺の母の役目だ。彼女の両親が時間に不規則な仕事をしているため、小さい頃からよくこうしていっしょに食事をしてきた。受験期には遠慮していたのか一時的に離れたが、どうやらまた元の暮らしに戻りそうだ。以前とは事情が違うので、内心、複雑だが俺にあれこれ意見する権利はない。考えてもしかたないことはあきらめるしかないだろう。俺は早々に食事を終え、腰を上げた。それに気づいた母が、なにかのついでみたいに言った。
「部屋に引きこもる前に、錦木さんに回覧板を持っていってよ、四葉」
「錦木さんて誰?」
「言ってなかったっけ。東の森の向こうに引っ越してきた人がいるって」
記憶が正しければ初耳である。俺の心のなかの困惑を代弁するかのように藍が興味津々で訊ねた。
「東の森の向こうって、竹林じゃなかった? いつのまに家ができたの?」
「そうか、藍ちゃんはずっと怖がって行きたがらなかったもんね、知らないのも当然か」と、母は俺より藍の質問を優先して答えをつづけた。
「東の森というのは実は食べかけのドーナツみたいになっていてね、ちょうどその空洞部分がなだらかな丘になっているんだ。そこにぽつんと、白い板張りの平屋が建っている。おばさんの聞いた話によると、いまから五十年も前に作られた家らしい。ところが不思議なことに、人が住んでいた形跡がない」
「そこに錦木さんていう人が越してきたんだね、おばさん」
「うん、そう。四葉は子供の頃、よく一人で探検をしにいっていてね、お化け屋敷って呼んでいたよ。竹林は丘の東にある森を抜けたさらに向こう側にあるんだ」
「そうだったんだ。全然知らなかった」
「男の子は野蛮だからねえ。本人は忘れたいだろうけれど、つい最近まで自分のことを勇者だと思っていたみたいだから」
「アハハ。それ傑作」
よりによって藍に黒歴史を公開するなんてひどすぎる。俺はいたたまれなくなり、無言のままその場から歩いて逃げだした。しかしさすが我が母、すかさず俺の進路を塞ぎ、有無を言わさずに回覧板を手渡してきた。
「頼まれたことは責任持ってやること」
「わかったよ」
いままでもそうしてきたように極力、感情は込めずに答え、俺は東の森に向かう。
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