8月2日 昼前

 苗字はあるけど、名前がない。

 そんな馬鹿げた事を言い始めた彼女は、僕が困惑してトーストをガムのように噛み続けている間に、自分の分の朝食を食べきっていた。

「……いいわ。ちゃんと説明してあげる」

 彼女はコップに3分の1ほど残っていた牛乳を飲み干してから、にわかに信じがたい話を始めた。

「昨日の夕方の話よ。あんたが近くのスーパーから帰宅するくらいの話」


 ーー8月1日 夕方


 姿も形も定まっていなかったあたしは、重そうな袋を持って歩く少年を見付けた。

 いつまでも漂っているわけにもいかない。あたしとヒマな時間を過ごしていたアイツは、一昨日に人間になった。

 アイツがどんな姿になったのかは知らないけど、今度はあたしの番。

 手頃な人間に成り代わり、「あたし」らしく人生を謳歌おうかしてやる。

 あたしは『ドッペルゲンガー』なんだから。


 買い物帰りと思う男の子の背後を追いかける。

 頭の上に浮き出てくる何十桁の数字。これを一度も間違わずに読み上げる。それで、彼のコピーとして、あたしは生まれ変わるわけだ。

 どういう理屈かは知らないけど、理屈なんかはどうでもいい。

 今大事なことは、彼に成り代わって、1ヶ月以内に彼を殺すことだ。

 殺せないと、あたしが消えちゃう。そういうルールなんだから。

 彼に恨みがある訳じゃない。むしろ、彼とは初対面だ。無差別殺人に選ばれた、可哀想な少年でしかない。

 とはいえ、あたしにも、あたしの人生を謳歌する権利があると思う。あたしが誰かの犠牲になるなんて、そんなのはイヤだ。

(よし、これでコピーされる!)

 第1段階はクリアした。あとは少年を完全犯罪で殺すだけ。ここからが本番だ。

 姿を形作り始めたあたしは、その途中経過を見られないように、公園に設置されている土管へと身を潜めた。

 この時間は、子供も大人も通行人しか存在しない。

 もしかしたら、別のドッペルゲンガーが居るかもしれないけど、コピーした人間を別のドッペルゲンガーがコピーすることは出来ないらしい。やった事がないし、試そうとも思わないから、実際のところは知らないけど。

 それに、一度コピーされた人間は、他のドッペルゲンガーにコピーされる事がないらしい。

 これは、あたしも経験があるから、コピー出来ない原因も体験している。

 コピー出来ない理由は、数十桁の番号が見えないのよ。なんで見えないのかは知らないけど、見えないとコピー出来ないのは、簡単に想像できるでしょ?

「冷たっ」

 体の大部分がコピー出来たのだろう。お尻に土管の冷たさが伝わってくる。

 夏とはいえ、もう日が傾いている。1日のほとんどが陽の当たらない土管の中だと、冷たさが他よりも抜き出ているんだろう。

「……なによ、アイツ」

 少し胸が締め付けられるように苦しい。どうも服のサイズが体に合ってないようね。少しでも力を入れれば、ビリビリって破れそうな気がする。

「まぁいいわ」

 それよりも、今日の宿を探さないと。

 一夜を土管の中で過ごすのも出来なくないけど、段ボールも新聞紙もない夜は、夏でも風邪をひいちゃう可能性がある。

 病気になれば、それだけ動きが阻害されちゃう。

 なんせ1ヶ月しかない。それまでに彼を殺さないと。

「……まずは服をなんとかしないと」

 窮屈な状態では、ストレスだけが増えるばかりだ。

 あたしは、自分の体を大して確かめもせずに、公園を後にした。

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