K.

 都築は大芝の信号から左に折れ、元箱根の駐車場に車を停めた。

「美術館か博物館に行く? この辺には幾つかあるみたいだけど…」

 都築は後部座席に置いた自分の鞄から、須黒に借りて来たガイド・ブックと地図を取り出した。

「そうね。遊覧船に乗りたいな」

「寒そうだけど、大丈夫かい?」

「うん。ぜひ乗りたいな。今の季節でも航路はあるの?」

「そうだね」都築はガイド・ブックを開いた。「――ああ、運航している。乗れるよ」

 二人は車を下りた。湖面を渡って来た風が頬を撫でて行く。悪い天気ではなかったが、流石にこの季節の芦ノ湖は寒かった。都築はドアをロックして、キーを上着のポケットに入れた。こんなに寒いんじゃ、コートを着て来るんだったな、と都築は思う。

 時刻を見ると、丁度十五分ほど後に出航する便があった。窓口の女に尋ねると、予約は不要です、と無愛想な口調で返事が返って来た。

「そろそろ昼だけど、昼食はどうする?」

「うん、あっちに着いてからでいいよ。あっちって、どこに行くんだか知らないけど」

 篠生は笑って言った。笑い声は事務所の中に寒々と反響した。都築が振り返ると、待合所に入っている観光客らしい人影は、十名足らずであった。

 発着所で乗船券を二枚購あがない、待合室で手足が釘氷くぎこおりになる思いで待っていると、やがて船が視界に入り、ゆっくりと桟橋さんばしに横付けになった。静かだった待合室は、どやどやと下船する乗客の話し声や足音で満ちた。アナウンスが入る。乗船客は並んでください。都築は篠生を促してタラップに足を掛けた。

 船室に入ると、都築はなるべく暖かそうな奥の席を見つけた。窓際のシートで、日差しもいっぱいに入る。船は暫く停船したまま、ぐらり、ぐらり、と左右に大きく揺れていたが、やがて一声周りに宣言するように大仰な汽笛が鳴った。

「この船、いったいどこ行きなの?」

 篠生は相変わらずにこにこ顔で暢気なことを聞いて来る。

「さあね」都築はにやっと笑って見せた。「ぼくも確かめずに切符を買ったから、知らないよ。変な所へ連れて行かれて、昼飯は食いはぐれるかも知れないぜ」

「あはは。面白い。ミステリー・シップだね」

 窓際に座った篠生は、窓外を流れるホテルや鳥居や公園を目に留めてははしゃぎ、楽しげに冗談を言っては小児のように足をばたばたさせた。

 篠生の陽気さに付き合うのが疲れ、そろそろ頓服とんぷくを飲もうか、などと都築がぼつぼつ考え出していると、篠生が不意に黙った。

「あたし、ちょっと外の空気が吸いたい」

 篠生はそう言って、都築の前をするりと抜けて通路に出、ドアを開けた。都築はほっとして座席の背凭せもたれに体重を預けた。都築は勿論、この船は湖尻行きであることを知っている。終点までは三十分だ。船室内には、窓から見える名所を解説するテープの声が流れている。都築はそれを聞きながら漫然と外を眺めていた。その内に眠気が差して来る。ああ、そう言えばルートヴィッヒ二世も湖で死んだのだったなあ、などと取り留めもないことを考えてうとうとと舟を漕ぎ、再びはっと目を覚ました。腕時計を見ると、あと十分ほどで湖尻に着く。隣には篠生はいない。

 都築は席を立ち、ゆったりと揺れる船内を歩いてデッキに出た。首筋から冷気が入り、途端に眠気は去った。この船は三層式なのだが、都築たちの席は二層目にあった。船室の周りはデッキがぐるりと囲んでいる。都築はそこを歩いてみたが、篠生の姿はなかった。階段を上って、屋根のない三層目に出ると、夏ならさぞ小気味が良いだろうと思わせる寒風が吹いていた。

 篠生はデッキの柵にしがみ付いて湖を見ていた。展望デッキには他の客の影はない。

「おうい、篠生さん」

 と都築が声を掛けると、篠生は物憂ものうげに振り向いた。最前とは打って変わってしんみりとした様子である。

「どうしたの? もうそろそろ、終点に着くよ」

「うん。ありがとう。冷たい空気に当たったら、気分がすっきりした」

 そう言う篠生の顔が蒼白に見え、都築は思わず顔色を確かめようと覗き込んだが、篠生は顔をうつむけてしまった。

「そろそろ、下へ降りよう」

都築は、すっかり冷たくなった篠生の手を取って歩き出した。篠生は従順に付いて来た。外に目をやると、湖尻の桟橋がごく近くに見えた。

 船は無事に着岸した。都築は篠生の手を取ったまま、タラップを下りた。下船すると陸の方が湖上よりもやや過ごし易いようだった。都築は船を下りてから手を放し、篠生に、

「さて、どこで昼食にしよう?」

 と尋ねるともなく訊いた。

「どこでもいいよ」

 篠生は明るい声で答えた。都築がもう一度顔色を確かめると、先程よりはずっと血色が良いようだった。頬にも赤味が差している。

「じゃあ適当な店に入って食べることにしよう」

 都築は篠生を伴って、湖畔に店を構えている食堂に入った。偶々たまたまそこは湖魚を出す店で、都築は虹鱒は食べ飽きていたけれども、篠生は公魚わかさぎなどを珍しがって満更でもなさそうだったので、適当に料理を誂えた。

「箱根に来て良かったかい?」

 と都築は訊いた。

「うん。良かったと思う」

 篠生は即答した。

「今ごろ、東京では大騒ぎになっているんじゃないの?」

「大丈夫よ。一日二日連絡が取れなくなるのって、これまでにもあったから。注意されたんだけどね、いなくなったら困るって」

 篠生はビールを注文した。事後になってから、都築に、

「いいよね? 折角箱根に来ているんだし、昼から飲んでも」

 と同意を求めるように笑い掛けた。その笑顔は余りにも屈託くったくがなかったので、都築は釣られて頷いてしまった。

 都築は煙草に火を点けた。篠生も断りもせずに都築のパケットから一本振り出した。

「篠生さん、煙草なんか吸うの?」

「うん、いいじゃない。たまにはあたしだって羽目はめを外したいんだから」

 と言って、篠生は臆面おくめんもなく、手馴れた仕草ですぱすぱと吹かした。運ばれたビールを手ずからグラスに注ぎ、一息にあおり、公魚の揚げ物を摘まむ。またビールを飲む。そういう篠生の所作を、都築は料理に手も付けずにじっと眺めていた。

「やっぱりね」酔いが回ったらしく、篠生は顔を紅潮させて言う。「気付かない方がいいことって、あるんだよね」

 都築は漸っと箸を取って、焼き物に手を伸ばした。

「例えば?」

「例えば――そうだね、人に煙たがられていることとか、逆に好かれていることとか」

「気付かない方がいいのかい?」

 都築は他人が自分の目の前で酔っ払うのを冷静に観察するのが好きではなく、すっかり食慾しょくよくを失していた。

「そう。絶対気付いたらだめね。人間、多少間が抜けていた方がいいこともあるのよ」

「そんなものかなあ」

(「人間、ちょっとボンヤリしていた方がいいんだよ。全部分かっちゃったら、地獄だよ。知らぬが仏だね」)

 篠生は、あっという間にビールをボトル一本空にして、満足したらしい。魚を半分ばかり突付いただけの都築の皿を見やり、

「どうしたの。食べないの?」

 と問うた。

「うん。もう冷めちゃったしね。実を言うと、余り腹も減っていないんだ」

「じゃ、そろそろ行きましょうか」

 篠生は自分の皿を空にし、時計を見て立ち上がった。都築が勘定かんじょうを済ませている間、篠生は外で待っていた。

 湖尻から元箱根に行くバスを探したが、その路線はそもそも存在しないことを聞かされ、都築は篠生を連れて再度観光船に乗り、元箱根に戻ることにした。篠生は今度はデッキには出ず、大人しく腰掛けていたが、ふと都築が横を見ると、篠生はすやすやと寝息を立てていた。

 船の接岸を待ち、都築は篠生を起こして下船した。篠生は眠そうな目を擦りこすり付いて来たが、酔いは醒めたらしい。船着場を出て空を見ると、午前中とは一転して雲が広がっていた。都築はポケットを探ってキーを取り出した。

 篠生はつと都築の傍を離れて行ったと思うと、缶コーヒーを二本持って戻って来た。都築が車のエンジンを掛けると、一本を都築に押し当て、

「これ、飲もうよ。暖まるよ」

 と言った。確かに、長く無人だった車内は震えが起きそうな程に冷え込んでいて、暫く待たないとヒーターも効いて来ないようだった。

「酔いはもう残っていないのかい」

「うん。大分醒めたわ。コーヒーでも飲んで素面しらふに戻ろうっと」

「次はどこへ行こうか」

「そうだね。次は温泉に行きたいな」

「温泉ね」都築は言って、ガイド・ブックを開いた。「道筋にあって、空いていそうな所がいいね」

「あまり観光客の来ない所がいいな」

 本の中から適当に見当を付けて、都築は車を出した。車が走り出すと、篠生はまた沈黙した。都築がちらりと目を左にやっても、何を思っているのか、無表情な顔をやや俯けている。六道ろくどう地蔵じぞうの傍を通過した頃から、雪がちらつき始めた。

「雪だね」

 と篠生に話し掛けてみるが、篠生からは何の返事もない。また眠っているのか、と思って横を見ると、篠生は横を向いて車外を見ていた。

(「あたしたちってさ、夏は似合わないカップルだよね? 寒い真冬の日の方が似合うと思う。そういう日に、ぴったり寄り添って歩けたらすてき」)

 国道一号線を暫く下り、小涌園を過ぎて尚も走ってから、強羅の方面に抜ける枝道に入ると、都築が目星を付けた浴場はすぐ見付かった。木造の小ぢんまりした建築の二階屋で、近くには源泉が湧出しているらしく、湯気が漂っている。駐車場は狭いが、車は一台も停まっていない。

「ここだよ。いいかな?」

「――うん」

 都築と篠生は車を下りた。灰色の空から、はだれに雪が降っている。白い息を吐きながら、二人は建物に入った。

 ロビーにも番台にも一切人影がなかったが、都築が声を張り上げて、「ごめん下さい」と奥に向かって怒鳴ると、何度目かに漸く気が付いたらしい。ドアを開ける音、木の床をこちらへ歩いて来る足音がとして、やがて薄暗がりの中に初老の女が現れた。

「いらっしゃいまし」

 老女は、都築と篠生の姿を見て吃驚したように言った。

「お二人さま…ですね。ご入浴だけですか? 休憩もなさいます?」

「休憩って…どちらで?」

 篠生が尋ねた。

「こちらのお二階になりますが。お座敷がございますけれども」

「そう。――どうする、都築さん? 上がって行く?」

 都築は久しぶりの車の運転で神経に軽い疲労を覚えていた。

「うん。ぼくは休みたい気分だ。草臥くたびれたよ。少し休憩して行こう」

 都築は二人分の金を払ってロビーに上がった。そこには簡単なソファとテーブルが置いてあり、なぜか頭山とうやまみつるの書が飾ってあった。二人は別々になって浴室に入った。男風呂には先客の姿はなく、ただ浴槽に滔々とうとうと透明な温泉が満ち満ちている。都築は簡単に身体を洗ってから浴槽に入った。湯はやや温く、都築の疲れた筋肉には心地よい程度だった。都築は深めの浴槽の真ん中に身体を横たえ、手足を伸ばした。そして、産湯に浸かる赤ん坊のような心持になって何度か深呼吸した。やや熱めの柏屋の湯とは違い、皮膚が痺れるような刺激がなく、代わりにゆっくりと身体の内部に浸透して来るような湯だった。都築は浴槽の端から平泳ぎをしてみた。

(「疲れた時って、お風呂に入ったら、お湯に入ったらまた出て、冷たい水をかぶってまたお湯に入って、って言うのを何回か繰り返せばいいんだよ」)

 あゆ子に教えられた通り、湯に浸かっては流し場に上がって水を掛け、また湯に浸かる、というルーチンを幾度か繰り返すと、すっかり疲労は取れた気になり、都築は満足して浴室を後にした。

 身体を拭いてから時計を見ると、いつの間にか五十分も経っていた。今日は、夕刻遅くになるとは言っていたが千竃たちも来る。慌てて備え付けのドライヤーで髪を乾かし、都築は脱衣所を出た。女湯の入り口で足を止め、内側の様子を窺ったが、こそりとも音はしなかった。

 暗い廊下の隅の階段室を下から見上げると、二階にはどうやら和室が並んでいるらしかった。都築はやはり薄暗がりになっている階段を、踏み外さないように一段一段足元を確かめながら上がると、二階には三室あることが分かった。いずれもガラス障子が閉ててあり、中の様子は窺えない。もう来ているのか、と思い、都築は篠生を呼んでみた。すると、一番奥の部屋から、

「ここよぉ」

 という声がして、中で人の気配があった。よく見ると電灯も点っているようだ。都築は障子を開けて中に入った。

「遅かったじゃないの。大分待ったわよ、あたし」

 と篠生はしかし平然とした口調で言った。篠生はこの寒空に浴衣を着て火燵こたつに入っていた。卓上には茶器が並んでいる。

「お待たせ。〝坊っちゃん〟みたいに風呂の中で泳いでたんだ」都築は笑った。「身体中の皮膚がふやけるかと思ったよ」

 篠生は何も言わず、火燵の中で右に寄って都築に隣に入るよう身振りで指図した。都築は何の疑いも抱かずに、ふざけた気分で篠生の隣に身体を滑り込ませた。火燵に入ると、余計に室内の寒さが身に沁みて来る。

「寒いな。浴衣じゃ寒いだろう。何だ、暖房があるじゃないか。点けよう」

 と言って都築が火燵から出ようとすると、篠生が袖を引いて止めた。

「待って」

「どうしたの?」

 都築は話し掛けたが、篠生はじっと黙したままだった。その時になって都築は、篠生が激しくふるえていることに気が付いた。顫えがこちらまで微かに伝わって来るのだ。

「どう…」

 もう一度そう言い掛けた時、篠生が唐突に身動ぎして都築の方を向いた。そして、

「あたしね」と歌う時のような掠れた声で言った。「あの時、もう死んじゃおうと思ったの」

「あの時?」

「遊覧船で。芦ノ湖に飛び込んで」

 都築が黙っていると、

「お願いだから、ここで一緒にいてよ」

 そう言って、篠生は真面目な顔付きでじっと都築の顔を見詰めた。そしてふっと身体の力を抜いて、都築に体重を預けた。戸惑った都築は最初逃げようとして藻掻もがいたが、篠生はきつく都築を抱き留め、ぎゅっと唇を重ねて来た。都築にも篠生の身体の重さや、熱さ、丸みが甘さを伴って伝わって来た。都築はそれに釣られてつい篠生の浴衣に手を触れてしまった。あゆ子のことが少しだけ脳裏に浮かんだ。浴衣が落ちると、篠生はその下に何も身に着けていなかった。

 二人は暫し愛の行為にふけった。それが終わると、都築は篠生の髪を弄び、火燵から出た身体は寒かったが、篠生に寄り添うように身を横たえた。

「ご免ね」ぽつんと篠生が言った。「あなたに相手がいるの、大体分かってたんだ」

「――でも、寂しいのは一緒だよ」

「嘘よ。そんなの嘘。女を秤に掛けてる顔だよ、それは」

 そう言って篠生は口元にごく微かな微笑を浮かべて、じっと都築を見た。都築は蛇に睨まれた蛙のように何も言えなくなってしまった。

「でも、都築さんのこと、前から好きだったの。都築さんじゃなかったら、箱根になんて来なかったわよ」

 と言って篠生は都築の裸の胸に手を這わせた。都築は、

「ぼくは…」

 と言い掛けたが、篠生は都築の口を手で塞いだ。

「男は何も言わないの。言っちゃだめ」

そして篠生はいきなりがばと身体を起こして浴衣を身に纏い、

「遅くなっちゃう。帰りましょう。先に行って、都築さん。身繕みづくろいしたいから」

 都築は車の中で思い出したので、携帯電話を出して千竃の番号に掛けた。千竃はすぐに出た。

「いま、登山電車の中なんだ」千竃は言った。「ええと…大平台を出た所だよ」

「それじゃあ、小涌谷の駅まで車で迎えに行くよ。こっちの方が早く着くと思うけど、もし駅前にいなかったら、待っててくれ」

 やがて篠生も車に乗り込んで来た。不機嫌かと思いきや、鼻歌を歌っていた。そして、バッグから今度はクリームのCDを出して〝クロスロード〟を掛けた。

 小涌谷の駅には電車より早く着いた。都築は何となく尻の下が落ち着かず、シートの上でもじもじと身動ぎしたが、篠生はエリック・クラプトンに合わせて上機嫌で歌っている。――やがて踏切が鳴って、灰色と赤の見るからに鈍重どんじゅうそうな電車がゆっくり姿を現し、駅に停まった。何人かの客が下車し、駅を出てある者は歩き出し、ある者はタクシーに向かった。芹沢と千竃は遅れて現れた。すぐに都築のことを認めて、手を振ってこちらに向かって来る。

「あれえ」車に乗り込んだ芹沢は頓狂とんきょうな声を出した。「あなたは、この間のライヴの…」

「あら」と篠生は愛想良く笑んだ。「来てらっしゃったんですか。ありがとうございます」

「しかし、どうしてここへ?」

「ええ、あたしも昨日からこちらにお世話になってるの。何だかダメ人間の溜まり場みたいになってるけど…。ね?」

 と言って篠生は運転席の都築を見た。都築は「うん、まあね」と口の中で返事をした。

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