J.

「また、来たんですね」

 都築は機先を制して言った。恐怖も、緊張感も、違和感も、都築はもう何も感じなかった。頭の中は真っ白だ。ただ、そこに菜穂子に似た女と自分とがいる。それだけだった。

「何かぼくに、用があるから来たんでしょう?」

 すると〝菜穂子〟は、暫くもだした後で静かな声で言った。

「昨夜もお話しましたが、ご用があるのはわたくしの方ではなく、あなた様の方じゃありませんか。あなた様がわたくしにご用があるから、わたくしはここへ参るのでございます」

 立ち居振る舞いこそ違うとは言え、やはりこうして話していると、まるで菜穂子と喋っているような気になって来る。ぼくが何も違和感を覚えずにこの存在と話せているのは、やはりその所為せいに違いないだろう、と都築は考えた。

「じゃあ、もう一度聞きますが、言って下さい。ぼくはあなたに、何の用があると言うのです?」

「それはあなた様の方がよくご承知じゃありませんか。あなた様がお困りになっているからこそ、わたくしはこうしてここへ来るのですわ」

「ぼくが? 困っている?」

 〝菜穂子〟は大仰な仕草で頷いた。

「ええ。あなた様は大分お困りじゃありませんか。それをわたくしが、手伝って差し上げようというのですわ。さあ、お困りのことを仰って下さいな」

 都築は目を擦った。

「ぼくには困っていることなど、一つもありませんよ。少なくとも他人のあなたになんか関係ないじゃありませんか。もうお引取り下さい。そして、ここにはもう来ないで下さい」

「まあ、こうして折角お邪魔しているのに、随分なお言葉じゃありませんの」〝菜穂子〟は静かな声で文句を言った。「わたくしは、あなた様のためを思ってこうして来ているのですよ。あんまりじゃありませんか」

「だって、ぼくには何も人に助けて貰うようなことは何もありませんもの。あなただって、いきなり何の遠慮もなく人の部屋に入って来て、失礼だとは思わないんですか」

 都築は、余り声を荒げて隣室の篠生に聞かれないよう注意して、半ばひそひそ声で〝菜穂子〟に自分の主張を述べた。すると、

「ない筈はないですわ。よく、ご自分の胸に聞いてご覧なさいな」

 と冗談粧じょうだんめかすような口調で言う。都築は黙って暫く考えた。どうも、何か困っていることを言わない限り、この女はここから出て行きそうにないらしい、ということが分かったのだった。

「それじゃあ、ぼくの人生を手伝って下さい」

深く息を吸い込んで、都築は言った。何も頭には思い浮かべず、ただ口の動くままに言葉を出した。言ってしまってから都築は、その願いが実に正鵠せいこくを射ていることに気が付いた。尤も、その時の都築は、そんなことに思いを巡らす余裕などないに等しかったし、また〝菜穂子〟にしても人間とは思えない程存在感が希薄だったのである。

「あなた様の人生ですか」と〝菜穂子〟は都築の顔を見て言った。「それを、どうするのでしょう?」

「そうですね。――いま、困ったことや気懸かりなことが幾つか起きているのです」

都築は言いながら、不意に強い寒気を感じていた。歯ががちがちと鳴る程の寒さだった。余りの寒さに耐えかねて、都築は布団を肩から着て言葉を継いだ。

「…うまくは言えないのですが、ぼくは一種のデッド・エンドに行き当たってしまっている。何もかもがまずいのです。仕事も、生活も…。もしできるのなら、それをどうにかして下さい」

「そうですか。かしこまりました」と〝菜穂子〟は即答した。「それなら、格別難しいことはありませんわ。何とか致しましょう。では、わたくしはこれで」

 〝菜穂子〟は背を向けて、部屋から出て行こうとした。

「待って下さい!!」

 都築は半身を布団から出し、その背中に向かって声を掛けた。しかし〝菜穂子〟は立ち止まらず、そのまま襖障子を開けて室外へ出て行った。〝菜穂子〟の背後で襖がするすると閉まる。都築はそれを追って、寒い部屋の中を四つん這いになって〝菜穂子〟を追った。畳の上で膝や掌が滑る。都築は襖に取り縋り、それをがらがらと開けた。しかし、そこには二階の廊下の暗がりが冷やかに垂れ籠めているばかりで、人影もなく、最前まで人間が存在していたという痕跡すらなかった。都築は素足で冷たい廊下に踏み出し、しんしんと冷え込む闇の中、〝菜穂子〟の影を探して彷徨さまよった。全てが空しいとっと気が付いたのは、梯の縁まで辿り着いて、階下を見下ろした時のことである。都築はすごすごと冷え切った自分の部屋に戻った。時計を見るともう四時前だった。

 部屋の暖房を入れて布団に潜り込んだが、寒さが身体の芯まで染み込んでいて、都築は歯の根が合わなかった。それが、果たしておののきから来るものなのか、寒さから来るものなのか、それとも両方から来るものなのか、判然としなかった。唯、都築は〝菜穂子〟が去り、自分がまた独りになったことに非常な喜びを感じていた。都築は震えながら覚醒していた。そして、今夜は恐らくまんじりともせずに夜が明け離れるのを待つことになるだろう、という考えが念頭に浮かんだ。都築は時間の速やかな経過を願ったが、もう十分も経ったか、と思って時計に目をやるとまだ三、四分しか経っていない。都築は盛んに寝返りを打って姿勢を変え、何とか場を凌ごうとしたが、冷たい夜の重さは容赦なくかって来た。やがて暖房が効いて来て、暖かい空気が室内に満ちたが、やはり都築の寒気は取れなかった。都築は震えながら布団の中で丸くなり、朝の訪れを待った。それにしても、これは須黒に一報入れて置いた方がいいのではないか、と都築は震えながら考えた。

 漸っと窓の外が明るくなり、冷やかな夜気が新鮮な朝の空気に変わると、都築の震えも少しずつ収束して来た。それと共に有無を言わさぬ睡魔が襲って来て、都築は布団にくるまったまま暫くまどろんだ。目を覚まして時計を見ると、丁度八時半を回った所だった。隣の篠生の部屋からは何も聞こえず、ひっそり閑としている。きっと菜穂子は自分の部屋の様子を見に来て、眠っていると思って引き返したのだろう、と都築は判断して梯を下りた。板場を通って母屋のダイニングに入ると、篠生が一人で黙然と朝食を取っていた。

「おはよう。ほかの人はもうとっくの昔に朝を済ませちゃったわよ」

 と篠生は眠そうな顔で言ってコーヒーを飲んだ。

「昨夜は大分寒さがきつかったけど、よく眠れたかい?」

「うん。暖房も点けないでぐっすり。夢も見なかった。こんなによく眠れたのは久しぶりだわ」

 話していると、家の奥からぱたぱたと元気の良い足音が響いて来て、菜穂子がダイニングの戸口から顔を覗かせた。

「あら、都築さんお目覚めですか? すいません、今支度しますので、少々お待ち下さい」

 そう言い残して、菜穂子はまたばたばたと廊下を駆けて行った。菜穂子の顔を見た瞬間、都築は暫く失念していた昨夜のことをはっと思い出して、身体が冷たくなる思いを味わった。と同時に、これはもう須黒に言う他ないだろう、と再び考えて、都築は菜穂子の後を追って寒い廊下に踏み出した。

「すいません」

 と立ち去る背中に向かって声を掛けると、菜穂子はせわしげな仕草で立ち止まって振り向いた。

「はい? 何でしょうか?」

「須黒くんはどこにいますか?」

「ああ、それが」菜穂子の声の調子が変わった。「兄は風邪を引いたみたいなんです。残念ですけど、今日の運転は無理だと思います。熱がありますので…」

「ああ、そうでしたか。いや、ちょっとお話したいことがあったんですが、それならまた後でけっこうです」

「それでしたら、ちょっとお待ちになっていて下さい。兄は二階の自室で休んでいますから、今、呼んで来ます」

 そう言い置くと、菜穂子は都築の言葉を待たずに階段を上って行ってしまった。都築はすごすごとダイニングに戻った。

「須黒さん、風邪を引いたんですって」

「うん。そうらしいね。今来るみたいだけど」

 都築は気もそぞろに返事をした。

「都築さんって、車の運転はできるの?」

 篠生は暢気な声で尋ねる。都築にはその言葉を聞く耳がなく、苛苛いらいらと須黒のことを待っていた。やがて菜穂子が戻って来て、それに続いて須黒がのっそりとダイニングに入って来た。

「やあ、都築。悪いことに、今日は風邪引いちゃって、外には出られないよ。済まないな」

 と須黒はがらがらと濁った病人の声で謝った。

「いや、それはいいんだ。ちょっと、聞きたいことがあってね」

「何だい?」

 と須黒は何も事情を知らない者の正眼せいがんで都築に尋ねた。

「いや、それはきみの部屋で話した方がいいんだが」

「そうか」須黒は漸く都築の顔色を見て取ったらしい。「じゃあ、来いよ。ぼくの部屋で話そう」

「都築さん、ご朝食はどうしますか?」

 菜穂子が都築の背中に声を掛けた。

「あ、すぐに戻りますから、用意していて下さい」

 都築は須黒の後について二階に上った。

 須黒は洟を啜りながら都築の話に耳を傾けていたが、都築が話し終わると腕組をして難しい顔で宙を睨み、勿体ぶるかのように暫し黙っていた。ややあってから、

「そうか」

 と須黒は先ず一言漏らした。そして、尚も虚空に目をやっている。

「…どうかしたのか?」

 須黒の不意の沈黙に対し、都築は訝しんだ。須黒はまた洟を啜り、一つくしゃみをしてから口を開いた。

「うん。実はね、そういう話をぼくに持って来るのはきみが初めてじゃないんだよ」

「そうか。同じような目に遭った人が他にもいたのか」

「そうなんだ。一回、ちょっと名の通った坊さんを呼んで祈祷して貰ったこともあるんだが…、そうか、また出やがったのか…」

「どの人も、同じような経験をしているのかい?」

「ああ。夜中に目が覚めると、和装の菜穂子が部屋の中にいる、或いは襖が開いて入って来る。そして、客人のことを揶揄するような調子で一方的に話をし、二十分か三十分してから出て行き、それ切り姿を見せない。顔立ちや背丈まで、菜穂子と瓜二つだ。ここ暫くは出なかったのでぼくらは安心していたんだが…、そうか、選りに選ってきみの所に出るとはな…。そいつは困ったな」

「他の人も、二晩続けて出たりするのか?」

「いや。大抵は一晩だけなんだ。それから、もう一つ注目すべき点があって、女客の部屋には絶対出ない。これまでに訴えて来たのは、男の客だけなんだよ」

「旧い旅館に、座敷童が出るというのは時々聞くけど、これもその類なんじゃないか? いつ頃から記録があるんだい?」

「いや、それがごく最近のことなんだよ。ここ五、六年位なんだ、お客から報告が来るようになったのは。それ以前はそんなことは全く起こらなかった。親父もそう言っている」

「菜穂子さんには、確かめたのかい?」

「うん。それとなく尋ねたり、夜中の行動を見張ったりもしたんだが、本人には記憶もないし、どうやら夢遊病者とも違っているようなんだ。それで坊さんを呼んだんだよ」

「そうか。それは愈々いよいよ妙な話だね。これは、きみのお父さんにも伝えて貰って、一回調べて貰う価値がありそうじゃないか」

「そうだね。親父にも一応話して置くよ。それに、こういうことを相談するあても、ないではないから安心してくれ。…ところで、今日は済まないけどぼくは外出できないんだ。きみ、出掛けるかい?」

 改めてよく見ると、須黒は熱に浮かされたようにぼんやりした目付きをしていた。

「うん。天気も良さそうだし、篠生さんを連れて芦ノ湖へでも行ってみるつもりだよ」

「運転免許はあるかい? あるなら、うちの車を貸すよ」

「ああ、持って来てある」

「そうか、じゃあ後でキーを渡すよ。きみ、朝がまだだろ? 朝食が終わった頃にでも下に行くから」

 都築は階下に下りて食事をした。篠生はコーヒーをお代わりして飲んでいた。

「今日は、須黒さんがあんなじゃ出かけるのは無理ね。あたし、内にいようかな」

「いや、須黒が車を貸してくれるらしいから、二人で出かけようよ。ぼくも、ちょっと気晴らしが必要みたいだから」

「ほんと? 嬉しいな。あちこち温泉に入ってみたいわ」

「そうだね。それなら地図も借りて行こう。昼は芦ノ湖の辺りで探せば、店は見つかるだろうし」

 と話していると、丹前を羽織ってすっかり病人顔をした須黒が現れた。

「篠生さん、済みませんね。不養生が祟って、生憎あいにく熱が出たみたいなんですよ。でも、都築くんが運転できるみたいなので、二人で出掛けて下さい。…はいこれ、キーだよ。車は旅館の玄関横に置いてあるから」

「どうも有難う」

 食事が済んで暫くしてから、都築は手荷物を纏めて篠生の部屋の前に立った。声を掛けると、打てば響くように「はあい」と元気の良い返事が返って来た。間もなく篠生が襖をがらりと開けて顔を出した。

 玄関へ出て見ると、須黒が言った通り、車が回してあった。小型の真新しいダイハツだった。どうやら四輪駆動らしく、山道を走るのには申し分なさそうである。菜穂子が母屋の方から顔を出した。

「行ってらっしゃいませ。お気を付けて」

 と、顔立ちこそあどけなさが残る割に、言葉だけは一人前で、都築はその仕草の中にどことなく夜中に見た姿と共通したものが窺われるようで、また背筋が寒くなった。

 都築はスタート・ボタンを押して車を暖めた。篠生が助手席に座った。都築が車を運転するのは実に久々のことで、感覚が戻るのには暫く慣れが必要なようだった。

 枝道を走っている分には問題がなかったが、休日の国道一号線に出ると流石に交通量が多く、都築は運転に意識を集中せざるを得なかった。横に座っている篠生のことは少し注意して、合間あいまに様子を見たが、何も言わずにちんまりと座っているだけだった。見るものと言っても、一号線は深い山の中を通るので、ほとんど眺望は利かない。

 たまには二人でドライヴに行きたいな、とあゆ子が話していたのを、都築はふと思い出した。

「――どうしてこんな所へ来たの?」

 都築は一番気に掛かっていたことを尋ねた。篠生は相変わらず黙っていたが、暫く沈黙を続けた後で漸っと口を開いた。

「そうね。自分でもよく分からないな。東京の人は、今頃はあたしがいなくなったって大騒ぎしてるかも知れないけど」

 都築は吃驚して篠生の顔を見た。篠生は何となくばつの悪そうな表情を浮かべていた。

「えっ、何も言わずにここに来たんだったの?」

「うん、実はそうなの」

 篠生は極りが悪そうな口調で言った。また暫し沈黙する。その上で再び口を開く。

「この前ね、信州の実家の母から電話があったの。母が主に切り盛りしているんだけど、実家では商売やっているのね。その店の事務の方を継いでくれないか、っていう電話だったのよ。父とは一年半くらい前に離婚していて、父はいま愛人だった人と暮らしているの…。おまけに、就職していた弟も仕事を急に辞めて、自分も東京に来たい、なんて言い出して…」

「そうか。でも、きみは帰るつもりはないんでしょ?」

「分からないな」と篠生は溜め息混じりに言った。「あたし、東京に出て来る前に、あっちに付き合ってる人がいたのよ。向こうがどう思ってたのかは分からないけど、一大決心をしてこっちに来る時は、けっこう後ろ髪を引かれる思いだったのよね。そんなこともあって、故郷に未練がない訳でもないの」

「そう…。でも勿論、その人が今どうしているかは分からないんだよね?」

「分からないわ。音信も途絶えてるしね。それでも、やっぱり今でも気持ちって残るじゃない。そりゃ、実家に戻ったから早速どうこうなる、って問題じゃないのは当たり前だけど…」

「なるほどね。――今のうちなら、まだ実家には戻れるかも知れないよ。ラスト・チャンスだと思う。でも、あと一年経ったらどうなるか分からないよ」

「どうして?」

 都築は少し笑った。乾いた笑声が車内に漏れた。

「どうしてって、この調子で行けば当たり前じゃないか。このまま行けば、一年後には多分きみが実家に戻りたいなんて言い出しても、誰も許してくれないよ。それに、契約やら何やらで雁字がんじがらめになると思うしね」

「ああ、そういうことか」篠生は首肯した。「そうね…、どうなるのが一番いいのかしら。どうすればあたしは幸せになれるんだろう。ねえ、どうすればいいと思う? 都築さん」

「ぼくにもそれは分からないね。きみが一番よく分かっているんじゃないの?」

 篠生は力なく首を振った。

「分からないの。あたしにも」

 車内には再び沈黙が、ワイン・ボトルの底に澱が沈殿するように、静かに降って来た。篠生は膝の上に置いていたハンドバッグからロバート・ジョンソンのCDを取り出して、プレーヤーに入れた。フォーク・ブルーズが静かに流れ出した。かっとなるのはよしてくれ…、と歌っている。

 都築はうろ覚えの地図を思い出しながら車を走らせた。道は暫く山の中を上っていたが、やがて平坦になり、それから再び上ったり下ったりを繰り返すようになった。先程は晴れていた空には雲の影が見えるようになり、微かにもやが出て来た。この辺りまで来ると、国道を走る自動車の数も大分減って来た。緩やかな勾配を下って大芝の信号が見えた時、木立の向こうに初めて芦ノ湖の湖面が姿を現した。

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