I.

 都築が茶を飲みながら、未練がましく書き掛けの原稿を読み直していると、隣の部屋の襖ががらりと開く音がした。温泉にでも入りに行くのだろう、と都築が思っていると、都築の部屋の前で止まった。

「都築さん」

 と控え目な篠生の声がした。都築が返答すると、篠生は、

「ちょっとお邪魔しても構わないかしら」

 と言って、都築が何とも返事をする前にからりと襖障子を開けた。そして、しずしずと室内に入って来ると、長方形の座卓の、都築の隣の辺に着いて座布団の上に座った。

「お仕事中?」

「まあね。でも大したことはやっていないですよ。ちょっと…今書きかけているものを読み直している最中だから。お茶でも淹れようか?」

「うん。飲みたいな」

 都築は手を伸ばして卓上のポットと茶碗を取った。

「ごめんね、今回は。無理言っちゃって」

「いやあ、いいんだよ。須黒たちもむしろ喜んでいるみたいだしね。気兼ねなくゆっくりして行くといいよ。それに、どうやら明日の夕方には、ぼくの高校時代の友人が二人、来ることになりそうだし。気にすることないよ。」

「あら、また増えるの? 大丈夫なのかしら」

「うん。須黒に取っては歓迎すべき事態らしいよ」

 すると篠生は、

「そう。ならいいんだけど。――あのね」

と言ったきり押し黙ってしまい、何とも言えない表情で都築の顔をじっと見詰めた。

「何だい?」

 と都築は尋ねた。

「――あたしね、正直、もう疲れちゃったの」

「疲れちゃったって、何に?」

 都築は二つの茶碗に茶を注ぎながら尋ねた。

「いろいろ。それこそいろいろよ。バンドやって行くのって、こんなに大変だなんて思わなかった。本当のど素人で、カラオケで歌っていた頃が懐かしいわ」

 篠生はそう言うと、一口茶を啜って茶碗を卓上に置き、長くて白い両手指を伸ばしてこめかみを力を込めてゆっくり揉んだ。

「別に、バンドの中がごたごたしていることはないんでしょ、バンマスさん?」

「そうね。今の所はね。でも、きざしみたいな物はあるの。中谷くんと、澤田くんと、あんまり仲が良くないのよね。二人とも、もういい大人だから、はっきりと顔に出すことはないんだけど…、お互い気まずいんだよね、あの二人は」

 中谷とはベーシストで、澤田とはドラマーだった。

「リズム・セクションの仲が悪いなんて、最悪じゃないか」

「ううん、はっきり仲が悪いっていうことはないの。だけど、…これは始めからのことなんだけど、なんて言うのか、性格的にすれ違っちゃうのよね。別に誰が悪いってことじゃないの。二人ともその辺はよく分かっているみたいだから、表立って口に出すことはないんだけどね。いつか、どっちかが脱けることで解決するのかも知れないし…。それに、最近分かっちゃったんだけど、澤田くんの今の彼女って、昔中谷くんと付き合ってた人なんだよね…。あたしはバンマスどころかもう逃げ出したい気分よ」

 篠生はわらった。

「そうか。この間のライヴを見た限りでは、すごく安定したいいバンドになったように見えたけどね」

「うん。音の上では、すごく状態がいいのよ。だから、今ここで駄目になっちゃったらすごく勿体もったいないしね」

「そうかあ。去年の秋に出したアルバムもすごく評判がいいし、何とかこの状態が続けばいいのにね」

 都築がそう言うと、篠生は少し暗い顔をして肯いた。

「うん。どうも難しそうだけどね。遠山くんは、こういう微妙な雰囲気が苦手みたいで、レコーディングの時も一人で過ごすのよ。どうも、ギターの遠山くんが一番最初に脱けちゃいそうな気がするな」篠生は面白くなさそうにまた笑った。「そんなことを考えていたら、なかなか明るくなれなくて、ついついお酒に手が出ちゃうのよね」

 都築は何も言わずに点頭てんとうして、煙草に火を点けた。

「ご免ね、愚痴ばっかりで」

 篠生は済まなそうに付け加えた。

「いいさ、疲れているのは皆な一緒なんだから。ぼくだって似たようなものさ。ここ、工事が始まる迄は滞在していてもいいみたいだから、ゆっくりして行くといいよ」

「そうね。あたしにはぴったりの場所だわ。鬱陶うっとうしい人はいないし、面倒くさいこと考える必要もないし」

「周りの人には、何て言って出て来たの?」

 そう都築が問うと、篠生は一呼吸おいて、

「うん、実家の母親が体調を崩して寝込んでいるから、看病に行くって言って来た。暫くはエスケープ出来るかな」

「そうだね」

 篠生は不意に身体を起こし、都築の方に向かって身を乗り出して来た。

「ねえ、所でさ、この辺でもうどこか遊びに行った?」

 そう訊かれて、初めて都築は自分が観光地に来ているということに気が付いた。

「ああ、いや、そう言えばまだどこも行っていないな」

「今日はもう遅いけど、明日どこか行こうよ。あたし、芦ノ湖に行ってみたかったの」

 一日中旅館の中に籠もっているよりは、ちょっと外に出て見た方が気分転換になっていいかも知れない、と都築も思った。

「いいとも。でも、うっかりしていたな。ガイド・ブックを持って来るんだった。ぬかったよ」

 篠生は立ち上がって、一つ伸びをした。

「ご免なさいね、お仕事中にお邪魔しちゃって。あたし、温泉に入って来る」

 篠生が出て行くと、再び部屋の中には静寂が満ちた。尚も暫く画面を睨んでいたが、半時間程粘った後で、頭が痛くなって来た都築は、五時を回ったことを知って、自分も風呂に入ろうと思った。

 夕食の席は賑やかになった。

「篠生さんって、歌手なんですって?」

 好奇心旺盛な菜穂子は、給仕が終わって皆が箸を動かし始めると、開口一番篠生に尋ねた。

「ええ。でも、ピンでやっている訳じゃなくて、バンドのヴォーカリストなんです」

「へえ、じゃあロック・バンドですか?」

「ううん、ロックって言うよりはブルーズ・ロックって言った方が正確かしらね。電気が入ったブルーズ・バンド」

「ロックじゃないんだ。都築さんとは、どうやって知り合ったんですか?」

 菜穂子は篠生と都築とを交互に見ながら言った。その目には、一種の名状し難い好奇の表情が浮かんでいるのを都築は認めた。

「ぼくは、時どき音楽雑誌に原稿を書くことがあって、アルバムとかライヴ・コンサートのレヴューをするんですが、篠生さんのバンドのCDを担当したことがあって、それが切っ掛けだったんです」

 と都築は説明して聞かせた。篠生は、須黒に進められたビールを飲んでいた。

 菜穂子の質問は止まる所を知らず、「ロックはやらないんですか?」だの、「ブルースとロックって、どう違うんですか?」「今は音楽だけで生活しているんですか?」等と質問を浴びせ掛けたので、また兄の須黒が割って入った。

「いいえ、いいんですよ」と篠生は笑って須黒に言った。「誰かさんの意地悪なインタヴューよりずっと答えやすいですし」

「おや、ぼくはそんな厳しいことは言った覚えはないけどなあ」

 都築はちょっと笑って篠生に反論した。

「そうだ、そんなことよりも」少し酔いが回って来たのか、篠生が大きな声で須黒に言った。「明日どこか遊びに行きたいんですけど、この辺って何があるのかしら」

「そうですね。定番ですけど、芦ノ湖とか、彫刻の森とか。美術館も幾つかありますよ。うちに泊まるお客さんは、大抵そんな所に行かれますね」

 須黒は篠生のグラスにビールを注ぎながら、静かな声で言った。

「後は、御殿場方面とかになりますかな」康造が言った。「富士五湖の方まで、日帰りで行けないこともないですから」

「後で、うちで作っている簡単な観光地図をお渡ししますよ」

「悪いけど、案内を頼めれば助かるんだけどな」

 都築は須黒に言った。

「いいじゃないか。お前、お二人さんをご案内してあげなさいよ」

「そうだね」須黒は考えながら言う。「じゃあ、明日はぼくが車を出そうか。この辺りを案内して回りますよ」

「悪いな」

「いやいや。たまにいるからね、観光案内を頼むお客さんも。大体そういうお客さんは箱根が初めてだから、決まったコースを回ることにしているんだ」

「あたし、芦ノ湖を見てみたいな」

「そうですか。じゃあ、船にでも乗りますか?」

「そうね、岸辺を歩くだけでもいいな」

仙石原せんごくばらもいいですよ。今の季節は、湿生花園も閉じていますし、寂れていますけどね」

 夕食が済むと、都築と篠生は連れ立って玄関を出た。

「あ、星が見えるみえる」

 道すがら、篠生は旅館のスリッパを突っ掛けたままの格好で立ち止まり、夜空を見上げて言った。

「東京から大分離れたからね。街の灯りもないから、星が綺麗だよね」

 都築は月並みなことを言った。

「あたし、こんな風にゆったり立ち止まって、空の星なんか見るの、ほんとうに久しぶり」

「そうかい。確かに、大分忙しかったみたいだしね。ここでリフレッシュして行くといいよ」

「…あたしね、もう歌うの止めようかと思うの」

 都築は吃驚して篠生を振り返った。

「一体どうして?」

「うん、何て言うか、こういう世界にはあたしは不向きだと思うの。いつも、何でこんなことやっているのかなぁ、とかって自問自答しながらやっているもの。疑問を抱いちゃ駄目ね。あたしは、アマチュアで歌っているのがぴったりなのよ、きっと」

「もう続ける自信がなくなった、って言うことなの?」

「そうね」篠生は肩を竦めた。「そう言ってもいいかも知れない。…でもね、本当の理由は、自分でもよく分からないのよ。いっつもそうね。核心の部分は、いつでも後になってから見えてくるものだし。本当の自分の気持ちは分かっていないから、まだバンドのメンバーにも言ってないけどね」

「ここに来たのは、その踏ん切りを付けるためだったの?」

「ううん、そうかもね。都築さんから箱根にいるって聞いた途端、突然、無性むしょうに人のいない所に行きたくなって」

「とにかく、中に入ろうよ。ここじゃ冷える。ぼくの部屋に、話に来ないかい?」

 と都築は篠生を誘った。篠生は少し躊躇ちゅうちょしたようだったが、やがて首を横に振った。

「うん、今夜は止めておくわ。酔っちゃったし、こんな時は早く休んだ方が良さそうね」

 篠生はお休みなさい、と言うと、自室に入っていった。その静かな襖の開(あ)け閉(た)ての音を聞きながら、都築は一人で部屋に戻った。底冷えのする静かな夜で、都築は気が向いたのでプレーヤーを出し、レヴューを書く予定のCDをヘッドホンでゆっくり聞いた。

 都築は音楽を聞きながら、最前の篠生とのりを思い返した。都築は職業柄、ミュージシャンとはよく会うけれども、篠生程打けた関係は他に持っていなかった。篠生と知り合ったのは、三年程前、まだ音楽ライターとしては駆け出しの頃で、篠生もその時はまだデビューしたばかりだった。篠生にはかなり長い下積みの経験があったから、都築もその頃の裏話などをよく聞かされ、それらは都築の仕事にも役に立った。篠生とは気が合ったから、やがては個人的に会って会食したりする間柄に発展するかも知れなかった。篠生を見ていると、音楽業界が分かる気がしたのだ。だから都築は、篠生が急に足を洗うと言い出したことでかなり衝撃を受けていた。この間の公演の出来は全く非の打ち所がなかったし、そんな気の迷いなど微塵みじんも感じさせなかったのだが…。

 まあ、仕方がないさ、と都築は自分に言い聞かせて、草稿をノートPCに打ち込んで行った。小説の方は二進にっち三進さっちも行かなくなっている都築だったが、雑誌に載せる原稿の方は滑らかに手が動いた。

 一頻り書いた所で時計を見ると、時刻は十一時半を回っていた。都築はその日の仕事はお終いにして、もう一度湯に浸かってから寝ることに決め、就寝前の薬を飲んだ。

 昨晩現れた、例の「あれ」のことを思い出したのは、湯に入っている時のことだった。そう言えば今日は忙しい一日だった、と都築は述懐じゅっかいした。和弘から二通目の手紙が届き、母の良子に連絡を取り、後は篠生の世話で明け暮れた。妙な女のことなどすっかり失念していても不思議はない。それにしても、「あれ」は何だったのだろう、と都築は思った。思いながら、広い浴槽の中で伸び伸びと手足をくつろがせ、高い天井を見上げてタオルで額の汗を拭った。「あれ」は、生きた菜穂子の存在なのだろうか。昼間は菜穂子のどこに隠れているのだろうか。分からない。しかし、「あれ」には、話に聞く幽霊等とは比べ物にならない程の強い生命感があった。「あれ」が幽霊や霊体の類だとは都築には思えなかった。

 あゆ子は幽霊を信じると言っていた。死んでしまった者の生前の念や望みが、死と共に消失してしまうなどとても考えられない、と言うのがあゆ子の持論だった。また、あゆ子の母親が恐山に行っていたこの口寄せをして貰った時のことも引き合いに出していた。都築は積極的に信じる訳ではなかったが、疑うでもなかった。態度を保留していたのだ。

 それにしても、「あれ」は今夜も現れる積もりなのだろうか? 昨夜はそんなことを匂わせていたが。「あれ」は、確か昨夜、自分には「あれ」に言いたいことがある筈だ、という意味のことを言っていた。それはどういうことなのだろうか。都築は湯中りする前に湯から出て身体を拭いた。そうしながら都築はじっくり考えて見たが、別に「あれ」に言いたいようなことは見付からなかった。まあいいさ、と都築は思った。人生と言うのは、コンピュータと同じ、一種のブラック・ボックスだ。訳の分からないことにぶつかったり、ちょっとしたトラブルに巻き込まれても使い続けて行けるのがこの種のブラック・ボックスの特徴だ。

 都築はそれ以上考えるのを止めて梯を上った。二階の廊下は静かで、篠生の部屋の前もひっそり閑(かん)としていた。都築は自分の寒い部屋に戻り、タイマーを掛けて暖房を入れて部屋を暖め、尚もラップトップの前に座って、先程まで書いていた原稿に言葉を足した。暫く作業を続けていると、薬が回って眠気が差して来たので、都築はPCを終了した。電灯を消して敷き放しになっている布団に潜り込むと、間もなく都築は眠りに落ちた。

 都築が夜半に目を覚ました時、やはり灯りが点いていた。都築はぱっと目を覚ました。やはり目を覚ましたか、と都築は忌々しく思った。今夜こそは「菜穂子」にはっきり言って遣らなければいけないな、と都築は考えて、布団の上で半身を起こした。部屋の中は妙にしんとしている。都築は室内を見回したが、予期した女の姿はなかった。しかし、都築は妙に寒気を感じて武者震いした。都築は一度布団から出て立ち上がり、強めにして暖房のスイッチを入れた。都築は再び布団に戻り、夜警に出る歩哨ほしょうの気分で待ち構えた。

 都築が暫く待っていると、やがて襖障子がしずしずと開いたので、都築は喉から心臓が飛び出る程驚いた。都築が見ていると、昨夜と同じ着物を着て、日本髪に結い上げた菜穂子が、真っ直ぐ前を向いて摺り足で部屋へ入って来た。冷たい空気が都築の肌に触れた。菜穂子は後ろを振り向いて、丁寧な仕草で襖を閉める。その挙措は、昼間の「本物」の菜穂子の所作とは全く違っていた。〝菜穂子〟は、座卓の傍に篠生が敷いた座布団の上に、都築の方を向いて座った。座った姿勢のままで、黙ってじっと都築に視線を向けている。

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