H.

「はい。都築でございます」

 暢気のんきな声で電話口に出た良子は、たどたどしい都築の説明を聞いて、

「まさか」

 とかすれた声で一言発し、絶句した。

「本当なんだ」

 都築は噛んで含めるようにゆっくりと一音一音はっきりと発音した。

「ど、どうして父さんの葉書がお前のところに行くの?」

 良子は溜め息混じりに言う。

「それが分からないんだ。ぼくがここにいることがどうして分かったのかも含めてね。とにかく、ファックスでこちらからその葉書を送るから、見て欲しいんだ。本当に父さんの筆跡なのか、それとも別人のものなのか」

「分かったわ。早速送って頂戴ちょうだい

 都築はファクシミリに付いていたスキャナを外して、二枚の葉書を良子の許へ送った。やがて、良子の方から電話を寄越して来た。

「間違いないわ。両方とも父さんの字よ」

「やっぱりそうか。よく見たの?」

「見たわよ。何度も何度も繰り返し確かめたわ。百パーセント間違いない」良子は不意に涙声になって、「父さんがねえ、何だってこんなにいきなり連絡を寄越すのよねえ…」

「とにかくさ」都築は自分も釣られて涙声になりそうになったのをぐっとこらえて、大きな声で言った。「その、三鷹の家に行って、黄楊を切って来い云々うんぬんなんだけど、どうするの?」

「そうねえ。箱根から往復するのは骨だわね。でも、時間はあるし、あたしが行こうかしら」

「えっ、本当に行くのかい?」

「勿論よ」良子は言下に言った。「だって、父さんの望みでしょ。聞いてあげない訳には行かないじゃない」

「だって…」と都築はちょっと笑った。「父さんがりにってこんな所に手紙なんか出して来る訳、ないじゃないか。理屈を考えればすぐ分かるだろう」

「そんなことないわ」と良子も言い張る。「あたしも見たけど、あれは絶対に父さんの手よ」

「分かったよ」

 と息子の都築は百歩譲ることにして、良子の主張を認めた。

「じゃ、あたし、行って来るからね」

「無理しなくていいよ。ぼくも、手元は十分だし、時間はあるし。それに、頼まれたのはぼくなんだし」

 直接頼まれた自分が行くと一体どんなことが待ち受けているのか、それが知りたい気もあった。

「いいえ。大家さんのところへ行って、事情を説明しないといけないでしょ? 三宅さんのことだから、快く承知して下さるとは思うけど」

「その前に、肝心の黄楊の木、伐られていたりしたらどうする?」

「ううん、そうね…」良子は暫く思案していたが、「まあ、それならその時にまた考えればいいわ。とにかく、あたし早速今日これから行ってみます」

「そう。分かった。それで、首尾については連絡をくれるかな?」

「ええ、もちろん。この番号でいいかしら? それともお前の携帯の方がいい?」

「どちらでもいいよ。待ってるから」

「分かったわ。じゃあ、固定電話に掛けるから。また後でね」

 都築は受話器を置いた。傍らでは須黒が興味津々な顔付きで見守っている。

「お袋の判断では、親父の筆跡に間違いないそうだ」

 都築は戸惑って溜め息を吐いた。

「じゃあ、あの木の枝とやらは、どうするんだ? きみ、取りに行くんだろ?」

 須黒はあんな葉書に書いてあった戯言ざれごとのような願いに応えることを当然のように思っているらしく、都築にはそれが意外だった――尤も、マイスター・エックハルトに心酔するような人間の考えることなのだが。

「……いや、それはおふくろが代行してくれるそうだ。しかし、家ってどこだろう? 三鷹の家で良かったのかな?」

 都築はふと、今日和弘から来た絵葉書を裏返して見た。するとそこには、直筆らしい、枯葉の積もった地面から飛び立とうとする百舌もずの絵が描かれてあった。都築には見覚えのない絵だった。絵のタッチや構図から真贋を判断しようと試みても、都築はそれ程絵画に興味を持つ方ではなく、父親の絵も見飽きる程見たという方ではないから、ここまで和弘の真筆であるかどうかは分からなかった。

 間もなく菜穂子がダイニング・キッチンから顔を出して都築と須黒を呼び、昼食になった。

 昼が済むと、都築は母屋を出て旅館に戻った。二枚の葉書は重ねて座卓の隅に置き、今日はこのさっぱり訳の分からない葉書のお陰で午前中は忙殺ぼうさつされてしまったな、と心中でぼやきながらラップトップを開き、懸案けんあんの短編作品を一通り読み返していると、携帯電話が鳴った。見ると、篠生からの電話だった。都築が「通話」ボタンを押すと、心持ち弾むような篠生の声が待っていた。

「いま、小涌谷の駅に着いたところなの」

「ああ、そうか。じゃあ行こうか」

「うん。来て。お願い」

 都築はコートを羽織って旅館の玄関で靴を履いた。丸二日の間、旅館の中で過ごしていたので、靴の感触は実に新鮮だった。都築が外に出ると、菜穂子が庭の枯葉を集めていて、

「あら、都築さんお出かけですか?」

「ええ。知人が小涌谷の駅に到着したと連絡が来たので、ちょっと迎えに行って来ます」

 都築は冠木かぶき門を潜って外に出た。ぶらぶらと坂道を下りながら久し振りに吸う外気を胸一杯に入れて大きく伸びをすると、空は叩けば音がしそうな程に青く澄み渡り、風も穏やかで、木々の陰を縫って心地よい午後の陽光が日溜まりを作っていた。

 あゆ子はこんな日が好きだったっけ…、と都築はぼんやり頭の隅で考える。

(「あったかい冬の午後って、春よりも好きだな。それが厳しい冬ならもっといいの。雪が積もってたりしたら、もうサイコー。外にいるだけで嬉しくなっちゃう」)

 踏切の手前で、車の来ない隙を見て国道一号線を渡り、左に折れると小涌谷の駅がある。ベンチの上には人影はなかった。が、駅舎の方に歩いて行くと、黒い革のコートを着た女の姿が目に入った。

「やあ、篠生さん」

 と都築が声を掛けると、人影は駅舎の中から顔を覗かせて微笑んだ。妙にうっそりした、半ば曇り掛けた午後の陽射しのような表情だった。

「今日は、都築さん。わざわざどうもありがとう」

 快活そうには聞こえる声で挨拶をする篠生は寒そうに手を擦り合わせ、足元に置いた大きな旅行用鞄を持ち上げた。都築はその鞄を篠生の手から受け取った。

「悪いわね、突然無理なお願いしちゃって」

「いいや、それなら須黒に言ってくれよ。ぼくも須黒の旅館に世話になっている身の上だから、余り大きな顔は出来ないんだ。でも、旅館の経営をする位だから、少なくともぼくのことは迷惑には思っていないみたいだけどね。遊びに来い、と言ってくれたのも須黒だし」

 都築は歩きながら、口から言葉が出るに任せて喋った。その言葉は白い蒸気になって、文字通り大気の中に雲散霧消うんさんむしょうして行く。

「あたしがいても、邪魔にならないかしら」

 篠生はこのに及んでそんなことを言う。

「ならないよ。多分ね。これから耐震工事をする予定の旅館だから、部屋はどれを使ってもいいみたいだ。温泉は二十四時間、入り放題だよ」

「違うの。都築さん、ここでもお仕事なさってるんでしょ? その邪魔にはならないかしら」

「まさか。ぼくだって、ここには暫く静養する腹積もりで来ているんだし、もし仕事に差し支えるようだったら、篠生さんのことは誘わなかったよ」

「そう。なら、よかった」

 国道を歩いていると、引っ切りなしにトラックや乗用車が二人を追い越して行く。やがて二人は国道から脇道に入り、間もなく柏屋に着いた。篠生は冠木門の前で暫し佇立ちょりつして、興味深そうに旅館の建物を眺めている。都築もそれに釣られて立ち止まった。

「だいぶ古い旅館ね」

「うん。大正の建築らしいよ。今月末から、耐震補強の工事が始まるらしい。寒いね。入ろうよ」

 庭には菜穂子の姿は見えなかったので、都築は旅館の玄関を入った所で上がりがまちに篠生の荷物を置き、篠生はそこに待たせて母屋に回った。すると、須黒がなたで木を割っている所に出会でくわした。ははあ、これだな、と都築は思った。

「やあ。新しいお客を連れて来たよ。今、柏屋の玄関先に待たせてある」

 都築は別に何も気に留めていないかの風を装って気軽に声を掛けた。

「ああ、昨日言っていた人か。それじゃあ菜穂子を呼ぶかな。部屋はきみの部屋の隣でいいだろ。ちょっと待っていてくれ」

 須黒はそう言って鉈を脇に置き、奥に入って行った。都築はその場に留まって鉈を取り上げ、詳細に改めた。次に須黒が割っていた木材を手に取った。何材かは分からない。丁度太さは手の握り拳程度で、長さは十五センチ程だった。これもまた新しい須黒の「左手」になることはほぼ疑いがなかった。何のためにあんなものをこしらえているんだろうな、と訝りながら都築は木片を置いた。すると、そこへ須黒が戻って来た。

「篠生さんはきみの部屋の隣に入ったよ。気さくな人だね。菜穂子と仲良くなれそうだ。何日位の予定で来ているんだい?」

「済まない。本人には確かめなかったよ」都築は頭を掻いた。「けど、数日じゃないかな。向こうで、バンドの練習もあるだろうし」

「まあ、何日いてくれても、工事が始まるまでなら構わないから。ただ、二月も末になると、業者が建物の構造を確かめに来たりするから、ちょっと騒がしくなるぞ」

 言いながら須黒は木材と鉈を再び取り上げた。

「それ、何にするんだい?」

「ああ、これか」須黒も何でもないように言った。「これで、ちょっとした彫刻をするのさ」

「彫刻って、何を彫るんだ?」

「ぼくの左手さ」

 須黒はあっさりと言った。

「きみの左手?」

「うん。ちょっとこっちに来てくれ」

 都築は玄関から母屋に上がり、二階の奥の納戸へ案内した。そして、都築に夥(おびただ)しい数の左手の彫刻を示した。

「これ、皆なきみが作ったの?」

 都築はやや苦心して吃驚したような声を出した。

「そうだ。ここまで来るには、半端な苦労じゃなかったよ。五十本も彫ってからのことだったかな、漸くまともな左手が彫れるようになったのは」

 須黒は都築に、手近な左手を一本手渡した。

「まず木材を切り出して、大まかな形を作って、それから彫刻刀を使って細かい部分を彫って行くんだ。大体出来上がったらやすりを掛けて仕上げる」

「何のためにこんなものを彫るんだ?」

「何のためって…そうだな、自分を納得させるためかな」

「納得させる? 何を納得させるんだ?」

「そうだな。自分がここにこうして生きている、ということを自分自身に分からせるためだよ」

「これを作れば、それが分かるのか?」

「分かるような気がする。しっかり分かっているのかどうかは分からないけどね。だって、その証拠に、百何十本も作っても、まだこんな風に作りたくなるからさ」

 須黒はそう言って笑った。

「ふうん。作らないと、どうなんだ?」

「ああ。二、三回、自分でもこれはおかしいのじゃないか、こんなものが作りたくなるのは異常なんじゃないかと思ったことがあって、作りたくなってから十日程放って置いたことがあるんだよね。そうしたら、夜中に鉈で自分の左手首を切り落とす夢を見てね。菜穂子の話だと、うなされていたらしいんだ。だから、それからは、作りたくなったら素直にその衝動に身を任せることにしているんだ」

「きみの医者は何て言っているんだ?」

「医者には話していないよ。話した方がいいのかな、と思う時もあるんだけど、医者はただ薬を出すだけだからね。不健康な薬をこれ以上増やされたりしたら堪らないよ。――でも、ぼくの知人に行者ぎょうじゃをやっている人がいるんだが、その人は作りたいなら幾らでも作ればいい、と言っていたな」

 行者か。須黒の知人には妙な人が多い、と菜穂子が言っていたのを思い出す。

「きみに、一つあげよう。どれ……そうだな、これが一番出来がいいや。去年の秋の終わりに作ったやつだ。ほら、裏返して見ると、通し番号が付いている。九七、とあるだろう。これは使った木材が良かったのか、随分彫りやすかった」

 と言って、須黒は都築に左手の彫刻をぽんと手渡した。

「どうもありがとう」

 と都築は余りぞっとしない思いで須黒の左手を受け取った。

「さあ、そろそろ出ようか。ぼくはまた一つ左手を彫り出す用事があるし。きみも、こんな下らないことに係っていないで、仕事しろよ」

 都築は須黒の九十七番目の左手を一本ぶら下げて母屋を出て、旅館に入った。午後もそろそろ遅くなっている時間だったので、庭木の影が長く伸びている。梯を上って二階の部屋に上がると、都築は一位いちい楠木くすのきででも作ったらしい、ずっしりと重いその手首を、座卓の上の和弘が送って来た二枚の葉書の上に置いて重石おもし代わりにした。

 仕事に取り掛かる前に茶を淹れて飲んでいると、梯を上る足音がした。隣室の篠生だろうと思って耳を澄ませていると、足音は篠生の部屋を通り過ぎてこちらへやって来た。

「都築さん、いらっしゃいます?」

 菜穂子の声だった。はい、と都築が返事をすると、襖障子を少し開けて、菜穂子が顔を出した。

「都築さん、母屋の方にお電話が入ってます。お母様からみたいですよ」

「ああそう、それじゃあすぐに行きます」

 母屋のファックス電話の受話器を取ると、電話線の向こうでは良子が待っていた。

「行って来たわよ、三宅さんのところ」

「それで、どうだった?」

「それがね、三宅さん、旅行に出ているとかで、お留守だったのよ。甥っ子さんはおられたんだけど、自分じゃ埒が明かないからって言って、三宅さんにはお電話は入れて下さるらしいけど、話にならなかったわ」

「そう。それは困ったね」

「でも、電話で連絡を取って、構わないっていうことになれば、明日にでも行っていいって言うのよ。肝心の黄楊の木は、やっぱりよく分からないみたいだったけど、もう長いこと庭には手を入れてないから、多分あるんだろうって言ってたわ。また明日、三宅さんのところに行ってくることにする。あの葉書には、二、三日中に、ってあったわよね」

「うん。そう書いてあった」

「それじゃあ、黄楊の枝が手に入り次第、飾るから」

「分かった。何分よろしく。でも、どこに飾る積もりなの? まさか三宅さん家じゃないよね?」

「ええ。あたしもちょっと考えたけどね、今のマンションの玄関に飾るわ。後ね、高科さんにも連絡を取っておいたのよ」

「高科さんにも? そうなんだ。何て仰っていた?」

 和弘は性格は穏やかだったが、極端にこもりがちだった故、一体に変わり者と見做みなされることが多く、友人や知人も極端に少なかったのだが、高科重信という洋画家だけとは親交を結んでいた。若い頃、一緒の職場で事務職のアルバイトをしていたのが知己になる機縁だった。和弘の失踪後には一時期息子たる都築の後見人を引き受けてくれていたこともあり、都築も全幅の信頼を寄せていた。

「ええ。そうしたら、大分吃驚なさってたわ。丁度ね、高科さんも、父さんの夢を見た所だ、って仰るの。やっぱり人の気脈きみゃくって通じているものなのね」

 涙ぐんだのか、良子はやや鼻声になった。都築は気まずくなって咳払いをした。

「話は分かったよ。飾ったら連絡を待ってるから」

「そうね。早速そちらに電話するから、待っていて。お前の携帯電話じゃなくて、須黒さんのお宅に掛けさせて貰うから。それじゃあ、また明日ね。…あ、さっき、千竃さんから電話があったわよ」

 都築は受話器を置いた。千竃から電話か。考えて見ると、今日は土曜なので陸運支局は休みだ。都築は携帯電話を取り出した。

「よう、都築。さっき、きみんに電話したんだが、箱根にいるんだって? 豪勢な話だな」

「いやあ、それが宿代はいらないって言うんだよ」

「へえ、どういうことだい?」

 都築は大雑把おおざっぱに事情を説明した。

「そうか。そりゃあいい話じゃないか。――おれも行ってもいいかい?」

 都築は苦笑いした。どうやらこの旅館はぼくの知人で一杯になりそうだ。

「来るって言っても、今日はもう土曜の夕方だぞ」

「大丈夫。月曜日は、〝建国記念の日〟で休みだ」

「ああ、そう言えばそうだったか。ならちょっと聞いてみる。どうせなら芹沢も誘えよ」

菜穂子は家のどこかで作業でもしているらしく、姿は見えなかった。玄関先に向かって、スリッパを突っ掛けて外に出ると、須黒はまだ材木と格闘していた。

「精が出るな。進み具合はどうだい?」

「この木はちょっと堅いね。削るのが一苦労だよ」

「所で、今おふくろから電話があってね」

「そうか。何だって?」

 須黒は下を向いて木材に刃を立てながら尋ねた。

「今日は話が進まなかったみたいだ。大家さんが留守で、肝心の黄楊の枝が手に入らなかったらしい。また明日連絡をくれると言っていたけど」

「そうかい。それは残念だったな」

「それで、話は変わるんだが、また別のぼくの友人が来たいと言っているんだよ」

 須黒は木を下に置いて、都築の方を向いた。額にうっすらと汗が滲んでいるのが分かる。

「うん、部屋は空いているし、構わないと思うよ。親父にはぼくから話しておくから。一泊でいいのかい?」

「一泊させてもらうだけで十分だよ。何だかぼくがぞろぞろ客を連れて来ているみたいで、済まないな」

 都築は頭を掻いた。

「いや」と須黒は顔を綻ばせて父親と同じことを言った。「うちは旅館業だからね。お客様が多いのは、嬉しいことだよ。歓迎するよ」

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