G.

 ふと都築は気が付いて目を覚ました。それまで何か夢を見ていたらしく、その印象が心中に残っていたが、どのような夢だったかは思い出せなかった。都築は寝転がったまま、目を動かしてぐるりを見回した。都築は部屋の電灯が点いていることに気が付いた。確か、休む前に電灯は消した筈だった。これはおかしい、と思うと同時に、意識が急速に醒覚せいかくして来て、都築はむっくりと布団の上で起き直った。

 都築は寝惚け眼で部屋の中をぼんやりと見回した。一回目に見た時にはそれに気が付かなかった。しかし二回目にそれが目に留まった。だが、都築はそれの余りの非日常性のために見過ごしてしまい、意識の上でそれを捕捉したのは三回目にそれを見た時のことだった。

 それ――いや、その女は、都築から遠い、廊下への出口の襖障子に近い部屋の隅に、やや俯き加減に正座していた。地味な浅葱あさぎ色をした小倉縮の和服を着て、頭は日本髪に結い上げている。女は下を向いているので、表情が分からない。都築はそれを見た途端、背筋がぞっと寒くなった。

「あ」

 と都築は、思わず言葉にならない声を発してしまった。すると女は、それを聞いてのことなのか、ごくゆっくりと顔を上げて都築の方を見遣った。その顔を見て都築は吃驚びっくりすると同時に、安堵した。女は菜穂子だったのである。

「ど、どうしましたか」

 寝起きでまだ頭がはっきりしない都築は、何だか寝込みを襲われたような気がして、吃りながら菜穂子におっかなびっくり声を掛けた。しかし、菜穂子は何も言わず、無表情に都築の方を見ているだけである。それは無表情ではあるが、冷たいてんとした顔付きではなく、柔らかで邪気のない表情だった。やや落ち着いて来た都築は、

「菜穂子さん、どうしてこんな時間にここへ?」

 と問うた。菜穂子は少しの間黙っていたが、おもむろに口を開いて静かに言葉を発した。言葉は静かな山中の夜の中へ、すぐに溶け込んで行く。

「いやだわ。わたくしをお呼びになったのは都築さんの方じゃありませんか」

 と菜穂子は静かな声で言った。日頃の菜穂子は溌剌はつらつとした話し方だったが、今はとても物静かな喋り方だ。

「ぼくが? いつぼくが菜穂子さんのことを呼びましたか?」

「昨日の三時ごろ」

 菜穂子はしれっとして答える。

「ぼくは格別菜穂子さんに用はありませんよ。もう夜も遅いですし、お引取り願えませんか?」

「わたくしをお呼びになったのはあなた様なんですよ。そうでなきゃわたくしはここへは参れませんもの。どうかご用を思い出しては下さいませんこと?」

 やはり、普段の菜穂子の口調とはかなりへだたりがある。これは本当に菜穂子だろうか? と都築は思った。

「さあねえ」と都築は首を捻って見せた。「ぼくの方は、別に菜穂子さんに用はありませんよ。いきなり夜中にいらしっても、ぼくは困るだけです。眠りたいんですよ。どうかお引取り下さい」

「そうですか」菜穂子は些か残念そうな口調で言った。「お手伝いできると思っていたんですけど…。それでは、今夜のところはわたくし、帰らせていただきます」

 そう言うと菜穂子は畳の上に立ち上がった。立ち姿も菜穂子その物だ。菜穂子は音もなく畳を歩くと、襖障子を開け、科を作って都築に一揖いちゆうし、廊下に出て行った。都築は布団の上に起き直ったまま耳を済ませていたが、菜穂子の足音はそれ切り聞こえなかった。

 都築は尚のこと布団の上で上体を起こし、呆然としていた。いま目にしたものが現実だとは中々冷静に受け止めることができなかった。都築は暫くぼんやりとしていたが、やがてもぞもぞと布団から出、取り敢えず熱い茶を淹れて一口啜り、何とか意識をはっきりさせようと試みた。

 一体菜穂子は何の用があってこの部屋に現れたのだろう? しかも夜中に、寸分の乱れも見せぬ和装をして。声は菜穂子のものだったが、どこか気品のある口振りは全く違っていた。その上髪も日本髪に結い上げていた。何の積もりだろうか?

 都築は煙草に火を点けてゆっくりと吸い、茶を飲みながら考えた。しかし、幾ら考えても分からないものは分からなかった。ただ、雰囲気から何から、昼間に見る菜穂子とはすっかり違うことだけは確かだ。都築は立ち上がり、襖障子を開けて外を見た。が、言うまでもなく廊下には誰もおらず、冷たい冬の空気が暗がりの中に静かに立ち込めているだけだった。

 都築は茶を飲み干し、煙草を仕舞うと布団に戻った。俄かに寒気がしたので、部屋の暖房を入れたが、身体の震えは止まらなかった。都築は、ここは夜中でも温泉に入れる、という須黒の言葉を思い出して、タオルを取って部屋を出た。念のため、階下に下りてから、廊下の電灯を点けて柏屋の玄関と、母屋に繋がる板場の勝手口の戸締りを点検してみたが、何れも菜穂子の手できっちりと鍵が掛けてあり、人が出入りした跡もなかった。都築は首を捻って浴室に入った。誰もいない風呂に首まで浸かっても身体の震えは止まらず、都築はその時になって初めて、震えは寒さのためではなく、恐怖によるものだと気が付いたのだった。

 都築は幽霊を見たことはなく、別に見たいとも思ったことはなかったし、これまでは比較的そうしたものとは縁遠い生活を送っていたのだが、それでも今さっき見た「菜穂子」を名乗るものが「この世」のものだとは到底考えることができなかった。

 あれは幽霊だったのか、ぼくは幽霊を見たのか、と都築は温泉の中で、心中繰り返し呟いた。しかし、幽霊が自分の名を名乗るなど聞いたことなかった。その上、あんな風な人馴れた、気さくな幽霊がいるなどということも考えたことはなかった。

 そのため、やはり都築には実感が湧かなかった。あれはやはり菜穂子ではないか、と都築は思った。容貌も声も菜穂子に瓜二つだった。だからこそ、都築の方もどことなく親近感を感じ、特に警戒心など持つこともなく話をしたのだ。

 釈然しゃくぜんとしない思いを抱えて都築は風呂から出て、あちこちの電灯を元の通りに消した後で部屋に戻った。時計を見ると、まだ午前四時前だった。布団には入ったが、神経が興奮していて寝付くことができない。仕方なしに持参の本などを出して来て、読むともなくページをぱらぱらと繰ってみたが、そうするといよいよ目がさえてしまい、五時半頃に就眠を諦めかけたが、それが却って良い切っ掛けになったのか、都築はことりと眠りに落ちた。

 都築が目覚めると、日は既に出ていたが、時計を見ると七時半過ぎだった。睡眠時間は短かったが、やはり神経のどこかが興奮しているようで、いつもは寝覚めの悪い都築もすぐに活動を始めた。取り敢えずノートPCを開けてメールを確認した。あゆ子からのメールも一通入っていたが、都築は読まずに置いた。部屋を出、階下に下りた所で、板場の方からやって来た菜穂子とばったり出会でくわした。

「あら、都築さんお早うございます。今朝はお早いですね」

 菜穂子は昨日と変わらぬ口調で挨拶した。都築は顔がりそうだったが、何とか普通の声色で、

「ああ、菜穂子さんおはよう。そろそろ朝食ですか?」

「ええ。ちょっと様子を見て、都築さんがお目覚めのようなら声をお掛けしようと思って。ゆっくりお休みになれました?」

 笑顔で無邪気に尋ねる菜穂子に、思わず都築は、(いや、それが、きみのせいでちっとも眠れませんでしたよ)と言ってしまいそうになり、慌てて言葉を呑み込んだ。

「…お陰さまで、よく眠れました。二十四時間温泉に入れるというのはいいですね。昨夜は途中で目が覚めたので、夜中でしたが湯に浸かりましたよ。身体を温めると、ぐっすり眠れました」

「そうでしたか。ゆうべはだいぶ冷え込みましたからね。北側の窓が凍り付いてしまって、開かないんです。これじゃ外の水道もきっと駄目ね」

 そろそろ家の者も朝にしますので、おいで下さい、と言い残して菜穂子は母屋に戻って行った。菜穂子の様子は変わらず快活で、とても気まぐれに幽霊に化けるような人間には思えない。都築は湯に入るのは食後に決め、部屋に戻って丹前を脱ぎ、シャツとセーターとジーンズのパンツとを身に着け、母屋に向かった。

「どうです、都築さん。執筆の方は進んでいますか?」

 康造が納豆を混ぜながら尋ねた。

「ええ、お陰さまで、ぼちぼちやれています」

「ここで作品が物せたら、是非拝見したいものですな」

「そうですね。進み具合によっては、お見せできるかも知れませんね」

「父さん。都築はここに息抜きも兼ねて来ているんだから」

 と須黒。

「あたしも読ませて貰いたいな」

 菜穂子が口を挟んだ。

「へえ、お前が読書するのか。随分珍しいじゃないか」

「書かれたばかりの話を読ませて貰うのって、何だか新鮮なんだもの」

(「書いた人の前で話が読めたら最高だよな、って思うな。とれとれの魚とか野菜をハイ、って出して貰うみたいで」)

「それは言えてるな」

「そうだ、都築さん、後でうちにある都築さんのご本に、サインをして下さいよ。お願いできますか?」

「ええ、喜んで」

「済まないな、どうもしつけな家族で」

 と須黒は頭を掻いた。

「いや、全く構わないよ。読者が増えるのは一番嬉しいことだからね」

 都築はそれとなく菜穂子の様子を観察していたが、やはり異状は認められなかった。昨夜ぼくの部屋に来たあの女は一体誰なのだろう? それともあれはぼくの見た幻覚なのだろうか? もしかしてぼくは、本格的な精神病になってしまったのだろうか…。都築はそう思って慄然りつぜんとする思いだった。これは国分寺に帰ったら先生に相談しないと。もしかして、箱根に来たのはまずかったのだろうか?

 食事が済むと、都築は挨拶もそこそこに、そそくさと母屋を出た。早速、昨夜「菜穂子」が座っていた辺りを確かめたけれども、言うまでもなくそこには痕跡すら残っていなかった。やはりあれは幻覚だったのだろうか? 何時までも気にしていても仕方がないので、都築はもう一回温泉に入ってから仕事の続きを進めることに決めた。

 ゆっくりと時間を取って、あたりする寸前まで温泉に浸かって部屋に戻ると、丁度十時前だった。都築はサスペンドしてあったラップトップを起動し、仕事のファイルを開けた。真っ白な画面を睨んで十五分ほど経った時、梯を上って来る足音がした。須黒の足音である。

「おい、都築」と須黒は襖障子の向こうから声を掛けて来た。遠慮がちな口調だった。「また、きみに郵便が来ているんだが…」

 都築は座布団から立ち上がって襖を開け、須黒をしょうじ入れた。須黒は都築に葉書を一枚手渡すと、座卓に向かって腰を下ろした。都築も座布団に座って葉書を読んだ。昨日と同じく、切手は貼られていても消印はなかった。


「 明様

  昨日は私の突然のハガキお読み下さいまして有難う御座います。

  早速ですが是非お願いしたいことがあります。

  家の庭の真ん中には黄楊つげの木が植わっています。

  その内で一番長い枝を根元から切って下さい。

  それを花瓶に活けて、家の玄関に置いて下さい。

  二、三日中にお願いします。

  どうかよろしく。」


 都築はじっと紙面を見詰め、何度も何度も繰り返してその文面を読んだ。そうして五分程も葉書を凝視しているので、須黒も気になったらしく、

「おい、都築、どうした?」

 と控え目に声を掛けた。

「これは――」と都築は言い掛けて、まるで喉の奥にかたまった言葉を解(ほぐ)そうとでも言うかのように咳払いを二、三度してから言葉を継いだ。「――恐らく間違いなく親父が書いたんだ。悪戯なんかじゃない」

「どうしてそう言い切れるんだ?」

「以前、ぼくたちは三鷹に住んでいたんだけど、親父は庭に植わっている黄楊の木を気に入っていて、何回か絵に描いているんだよ。そのことを知っているのは、うちの家族以外にはありえない」

「じゃあ――」

 と言い掛ける須黒をさえぎって、都築は、

「須黒、悪いけどお宅の電話を借りられないかな。電話、ファックスも付いているだろ?」

「あ、ああ、ファックスも一緒だけど」

「うん。じゃあ都合がいいや。電話を貸してくれ。国分寺のおふくろに電話するよ」

 須黒の案内で、都築はこれ迄に来た二通の葉書をたずさえて母屋に向かった。そして電話に飛び付くと、自宅の番号を押した。

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